2016年12月02日
前回触れたように、1990年代半ばの日本には、通信分野など規制緩和の追い風が吹いていました。一方、私が起業した「東京エレベーター」が参入したエレベーター保守の分野は以前から三菱電機、日立製作所、東芝エレベータなど、名だたるメーカー企業の系列会社が主なプレーヤーで、典型的な独占市場でした。
しかし、93年に出たエレベーター保守に関する判決が注目を集めます。エレベーターメーカーであるA社が持つ保守子会社Xは、A社製の部品を販売し、A社製エレベーターの保守も手がけていました。そこに、A社製エレベーターを設置しているビルを所有するB社(保守契約は独立系他社)が、このエレベーターが故障したとしてX社に部品を注文。X社は部品取り換えと修理を併せて発注しなければ部品のみの販売に応じず、さらに部品の納入は3カ月先だとB社に言ったのです。このような行為が独占禁止法に反すると判決が出て、原告は勝利しました。独禁法に規定された不当な取引妨害を理由に、損害賠償を認めた判決はとてもめずらしいことでした。
東京エレベーターは97年設立。最初は資本金1600万円でスタート(その後、500万円を追加投資して2100万円)しました。私と年長の日本人男性がそれぞれ出資し、割合は4対6くらいで、この男性が社長に就任しました。私は女性だし外国人、日本語もたどたどしいので、社長には、年かさの男性がいいだろうという当然のなりゆきでした。
■「あなたの会社はメーカーですか」
主たる業務はエレベーターの保守で、エレベーターメーカー系列の保守子会社とは違う独立系企業です。メーカー系列の保守会社より料金を3~4割ほど安くできる特徴があります。エレベーターの部品を仕入れるルートを確立して、顧客(ビルの所有者)の望む、どのメーカーの部品にも対応できるという保守サービスが売りです。
私が起業した97年には、メーカー系列会社によるエレベーター部品の売り渋りはすでに禁じられており、法的には市場は開放されているはずでした。エレベーターを設置しているビル所有者は、エレベーターのメーカー系列でない保守会社を使っても、まったく問題ないのです。ところがまだメーカー系列の保守会社は非常に強く(今もですが)、同じメーカーでないとそのエレベーターは保守点検ができないとビル所有者は固く思い込んでいる状態でした。
その証拠に、社長や私が営業にいくとまず聞かれるのが「東京エレベーター? あなたのところはメーカーですか、あるいはメーカーの子会社ですか」という質問です。続いて「メーカーじゃない? 保守点検ねえ。え、独立系? 系列じゃなければ、いざというとき、故障した部品を、うちが使っているエレベーターメーカーから入手できないでしょう」となり、「そのようでは安心できない」と言われるのがおちでした。いくら大丈夫です、部品は調達できますと説明しても、なかなかわかっていただけなかったのです。
当然といえば当然で、系列の保守会社はそのような独占状態の市場で長年守られており、今までのビジネスモデルをなんら変える必要はないわけです。利用する人々はその考えに慣らされて、メーカー系列の保守会社しか使えないと疑いもなく信じているのですから。単刀直入にいえば、それまで、うまみの多い、やりたい放題のビジネスをしていたのです。
そもそも、エレベーターと保守サービスを切り分けて考えるビル所有者はほとんどいませんでした。いったん設置したエレベーターは、その系列保守会社がセットでずっと面倒をみるものだという「常識」が植え付けられていました。
社長と私があちこち営業に出かけても、私たちのビジネスモデルは理解してもらえないことが多く、契約など望むべくもありません。エレベーターメーカーに部品を発注しても、「売りませんよ」と平気で言われる時代だったのです。独禁法に反するのではということで公正取引委員会がメーカーに立ち入り検査までする事例もそれまでにありましたが、状況は改善されず、競争がほとんど存在しない閉じられた市場でした。
私は弁護士ですし、独禁法など会社法には詳しいので、自分たちのビジネスモデルはまっとうで、あやしいものではないという自信があります。そもそも、部品の売り渋りなどあってはならない、日本という資本主義の自由競争の市場で、どうしてこのような独占状態が続いているのか非常に不思議に思いました。そして出た結論は、競争のない状態が今までの日本の「文化」だということでした。中国から来た私が、まるで日本は社会主義のようだと感じたほどでした。
■資本金がみるみる減っていく
商談をまとめることができない時期でしたが、保守会社として技術力で引けを取るわけにはいきませんから、なにより優秀な技術者が必要でした。高い報酬が必要だろうと、50万円の月給を提示して、経験のある技術者を社員1号として雇いました。
さあ、これで本当に保守契約を取り、売り上げを出さないとなりません。彼の給与50万円含め固定費は毎月出ていくのです。社長もがんばっていましたが、ぜんぜん契約が取れません。私たちはにっちもさっちもいかない状況にじりじり追い込まれていきました。ままならない状況に、追加資金500万円をほどなくして注入しました。でもすごい勢いでお金が減っていきます。このままでは早晩、底をついてしまいます。
望みが薄くなるにつれ、私は長年の家事で上げた料理の腕を生かし「エレベーターはやめ、水ギョーザのレストランを開くべきかもしれない」と真剣に考え始めました。今までにないビジネスなので、拒否反応もわからなくはないですが、半年ほどたっても顧客ゼロにはまいりました。中央区日本橋にある会社の窓からは水天宮方面がよく見えます。立ち並ぶビル、ビル、ビル。
「広い東京にはこんなにビルがある。私の会社は、この中のエレベーター一つにさえ、仕事がないんだ……」。そう思い、唇をかむときも少なからずありました。
■異業種交流会におそるおそる参加
ある金曜の夜。わらをもすがる思いである人に電話しました。一時期、交流会に興味を持ち、参加したことがあったので「人が集まるところで会社のPRができないか」と考えついたのです。大学3年生のときにそういったビジネス交流会で知り合った人に「なにか人が集まる会を知っていたら、ご紹介いただけますか?」と聞いたところ、なんと「経営者の集まりがあしたある」というではありませんか。渡りに船とはこのことで、翌日は土曜日ですし、さっそくその集まりに行ってみることにしました。場所は忘れもしない、秋葉原の万世橋の近くでした。
いわゆる異業種交流会です。私はそれまで社長を前面にたて、補助業務や事務方に徹していたつもりでしたが、この期におよんでは、女だとか、外国人で日本語が流ちょうじゃないなんて言っていられません。今営業しなければ、会社をたたむことになる!
もう必死でした。
部屋に一歩入ると、200人から300人くらいいたでしょうか。ほとんどが男性で、中には数人女性がいましたが、年齢はけっこう上の方たちのように見受けられました。男性ばかり大勢のなかで、白っぽいビジネススーツを着ていた私は、立っているだけで明らかに周りと違う雰囲気を醸しだし、断トツに目立ちました。
若い女性経営者というだけで注目なのに、話せば外国人。瞬く間に私は数十人の人たちに囲まれ、「どんな仕事をしているんですか」などと質問攻めに遭いました。みな興味津々で、私と名刺を交換したいと長い列までできる状態になり、まるで名刺交換マシンのように一生懸命応対しました。一人の人と話せる時間がゆっくり取れず、汗だくになって会社の説明をさせていただいたことを覚えています。会社名は平易で、老舗企業のような印象を与えられたのでとてもうれしく、助かりました。
効果はてきめんでした。経営者にエレベーター保守のことで頭を悩ませていた人は多かったとみえ、週明けから電話がひっきりなしに来るようになったのです。「見積もりを取ってほしい」「こういう安いサービスを探していた」と、反響はとても大きかったのです。
異業種交流会で知り合った方々を通して、初めて10台ほどの契約が成立しました。心からありがたく思ったと同時に、「私でも営業できる」という自信を持てたのがすごく大きかった出来事でした。若い女性で、日本語がたどたどしかったのは、私の大きなコンプレックスでしたが、思い切って行動すると、「そうでもないじゃない?」。そうした問題は、自分の考えと意外と違うもの。思い込みは、実は間違っている場合も多々あるのです。私は物おじしないし明るいし(笑)、実は営業向きかもしれないと、自分に対する見方が百八十度変わったのです。
顧客ゼロから脱出するため、自分で対策を立て打開しないといけない局面でした。勇気を出して、自分の言葉で、人様のお役に立てると私自身が信じているサービスを提供できます、と言ったら、人はちゃんと耳を傾けてくれました。
経営者の集まりという場もよかったのかもしれません。こういう人たちはアンテナを立て、新しい情報を常に探しています。集まりに顔を出せば、何かを得ようという意識が高い人たちです。意思決定者でもあります。そこに若い女性で外国人、エレベーター保守という隙間産業でまじめに頑張っている人が参加しているとくれば、驚きも大きく、感心して興味を持ってくださったのでしょう。実際、自社ビルを持つ経営者は多く、結果的に私は効率よく営業ができたのだと分析しています。彼らはエレベーター保守のコストがかさんで、本当に悩んでいたのです。
たくさんの人が「え、月に2万円も違うの?」と驚きました。エレベーターの保守料金は毎月払うもので、さらに毎年のように値上げもありますから(独占状態なので、値上げを要求されれば断れないのです)、積もればとても大きい差がでます。何十年も使えば、保守コストは何百万円も変わってきます。それだったらエレベーター自体を新調できるなあと、本当にみなさん驚くのです。この外国人、今までなかったいいサービスをやってるなって思う人が次々と現れ、問い合わせもたくさん入りました。私は人様のお役に立てていると実感できました。それがさらに、困っている人をもっと助けたいという力に変わっていきました。
少しずつ自信をつけた私は、いつしかこのような集まりに積極的に足を運ぶようになっていました。そのたびに契約数を伸ばしていきました。それでも、人々の思い込みは強く、契約を取るのは本当にたいへんでした。思い込みを取り払わないと納得してもらえず、納得してもらわなければ契約に結びつかないわけですから。今までなじんでいた、三菱とか日立といったビッグネームから、聞いたことのない会社に切り替える、それがビル所有者にとってどんなに冒険か。私を信用して、保守契約を結んでくれる1台、1台が、なんとありがたいことか。成約のごとに飛び上がって喜びました。
■よき理解者の応援「馬さんを尊敬」
ここで、山之内さんのお話をさせてください。私が起業した当初からお世話になった、日本の恩人の一人です。
彼はビル管理会社の経営者で、この万世橋の会で出会いました。後年聞いたところによると、私は端から見ても本当に一生懸命に名刺を配っていて、その姿が印象的だったそうです。
彼はある日、大口の見込み客を紹介してくれました。
その人はマンションとオフィスビルを合わせて10棟所有していました。それまでメーカー系列の保守会社と契約していましたが、私の会社が提示した価格が安かったために、私の会社と新規契約してくれたのです。成約までこぎつけた私は、本当にうれしく、ホッとしたのでした。ところが一転、翌日、結んだばかりの契約を解除したいという電話を受け、そんな気持ちは吹き飛びました。
このビル所有者がメーカー系列の保守会社に解約通知をしたところ、その会社から、営業担当者やらその上司やら、総勢8人が血相変えて乗り込んできたそうです。ビル所有者に「東京エレベーターと契約したら部品を売ることはできない」「故障しても部品が手に入らなくなる。あなたは大変なリスクを負う」と、強烈な引き留めにあったそうです。この所有者は、彼らの説得に負け、結果的に私の会社との契約を破棄してしまいました。
ぼうぜんとしました。自分はなんて大変なところにいるんだろう。独占状態が続いている、古い体質の「業界の壁」、そしてそんなビジネスに慣らされて、他社サービスに乗り換えることなど思いつかないビル所有者たちの思い込み。人々の意識に深く根を張っている「文化の壁」にぶち当たったと、このときほど痛感したことはありません。両方の壁は固く、高く、私の行く手を阻んでいました。
山之内さんとは、私がこの10棟のビジネスを失ってしまった後、連絡がないままになっていました。ところが何年もたってから再度連絡があり、彼の住んでいた町の町会長を紹介してくれたのです。そのつてから、町内のいろいろな方と東京エレベーターをつなげてもらい、多くの契約をいただきました。 あるときこの町会長はおっしゃいました。「馬さん、山之内さんはがんにかかっているのに、あなたのことを懸命に応援してくれているよ。あなたに会ってわかったけれど、人の役に立つために精いっぱい頑張っているから、山之内さんは病をおして応援したいんでしょうね。あなたの人徳でしょうね」
目頭が熱くなりました。山之内さんは私の奮闘を見ておられたのです。お父上の負債を受け継ぎ、非常に苦労をされたそうで、私の苦労がひとごとに感じられなかったのかもしれません。ああ、そのようなお方が、ご病気とは!
町内会のみなさんで――私はここのメンバーにさせていただいています――お食事する機会がありました。山之内さんは「歩くのが好き」と、元気な様子を見せていました。私は今まで不思議に思っていたことを聞いてみました。「なぜずっと、私を助けてくださったんですか」
私が一生懸命に名刺交換していた姿、そして外国人でありながら、ネームバリューのあるそうそうたる企業がひしめく旧態依然とした業界に打ってでて、今までほとんどなかった新しいビジネスをしようとしている姿に感銘を受けたとおっしゃってくださいました。馬さん、私はあなたを尊敬します。だから心から協力したいと思ったのです。よかれと思って紹介したビル所有者との話がなくなり、結果的に大きなチャンスをつぶしてしまい、申し訳ないと思った、と。病を得ても、心残りのないよう、最期まで私を応援するためひと働きしたい。そうおっしゃいました。
これから私が恩返しするというときだったのに――。山之内さんはその食事会の2週間後に容体が急変し、旅立たれました。今年の秋のことでした。
■尽きぬ感謝の涙 雨のお通夜に誓い新た
お通夜の日は午後から天気が悪くなり、外に出ると、傘をさせないほど風が強く、雨もざあざあと降っていました。全身がびしょぬれになるくらい、強い雨でした。駅から歩いて葬祭場に向かう途中、私は降りしきる雨の中、大声を上げて泣きました。人の往来もなく、雨にかき消されて私の声を聞かれることもありません。お客様の前で今まで何年もこらえてきた涙が、せきをきったように流れていきます。
私の起業家人生は、山之内さんの支援があったからこそといえるくらいです。営業に行けば「部品が買えないんじゃないか」「おたくの会社にして大丈夫なのか」と言われ、説得するのにまるで裁判にかけられているような思いをしました。揚げ句、不審がられる始末です。何度も仕事から逃げ出したくなる経験をしました。それでも涙をこらえ踏ん張り続けていたときに、「あなたのやっていることは、たくさんの人たちを助ける素晴らしい仕事です。だから馬さんを尊敬します。」とおっしゃり、サポートしてくださった、本当によき理解者でした。そんな奇特な方が亡くなり、いいようのない深い悲しみにとらわれました。
くしくも、大自然が泣いている。雨という名の涙を流している。私の目からも、雨のように涙が落ちていきました。 訪れた葬祭場の2階で、奥様とおぼしき方が私に近づき「馬さんでしょうか。馬さんのことはよく主人から聞いていました。今までどうもありがとうございました」とおっしゃいます。「お礼は私から言わなければいけません。本当に、ご主人にはお世話になりました。何か私にできることがあったら、ぜひおっしゃってください」とお伝えしました。初めてお会いした感じはなく、よく知っていた方のようで、それがとても切なく、ますます故人がしのばれました。
「山之内さん、今まで本当にありがとうございました。願わくば、恩返しをもっと早くして差し上げたかった。もうできなくなりました。それがくやしくてなりません」。とめどなく涙があふれました。彼の遺影の前で、しばらくたたずんでいました。「でもこれからもたくさんの人たちのために頑張ります。どうぞ見守っていてください」
人生は無常だと、つくづく思いました。こうして一日、生きていられるのがどんなに奇跡的なことか。そして人とのご縁のありがたさをかみしめました。山之内さんのように、もっと人を助けたい。そう誓いを新たにしました。帰りの雨の中、まだ涙がとまりませんでしたが、それは悲しみの涙から、感謝の涙に変わっていきました。
◇ ◇
徐々に営業成績を出し始めていた私の前に、先述した、競争なき市場が長年築き上げてきた「業界の壁」と「文化の壁」が高くそびえたっていました。これを乗り越えるための、険しい道を本格的に歩み始めたのです。この話は、次回に。
読者からのコメント
20歳代男性
いつも楽しく拝読しております。私も人のため、世の中のために出来る事をひとつひとつ行い、馬さんのような立派な方になれるように精進して行きたいと思います。 これからも経営者ブログを楽しみにしています。
Mattさん、50歳代男性
若々しい3年目の写真、経営者としての確固たる強い意志を感じますね。土砂降りの嵐の通夜の道の光景、胸が詰まるような気持ちで拝読しました。きっと山之内さんの応援したい気持ちは今たくさんの読者の中にも繋がって、ひろがっていると私は思います。
昌美さん、50歳代女性
日本のビル・エレベーターは、昔から三菱に日立に東芝と相場が決まっておりました。グループ傘下の会社もたくさんあり、歴史もあります。そこに、新人がやって来たのですから、弾き飛ばされるのは当然でしょう。経営者の交流会に参加出来たこと、更に、馬英華さんの人柄と誠実さが経営者達の心に響いたことが、とてもラッキーでございました。仕事が来ず、資本金だけが減って行く時は、どんなに不安だったことでしょう。この時の苦労は、必ずや財産となり、のちに役立ってくれるはずです。次回も楽しみにしております。
30歳代女性
素敵なお話をありがとうございました。 ひとつの会社を興すこと、そして新たな業態を作り新規参入をするということが、どれだけ大変かということが伝わってきました。 私達の生活が、こうした努力により成り立っているということを、忘れてはいけないですね。 また次回も楽しみにしています。
沢田啓明さん、60歳代男性
愛読しています。多くのハンディを前にして知恵を絞り、なおかつ勇敢に立ち向かう姿勢が素晴らしい。文章もお上手ですね。
堺谷光孝さん、60歳代男性
馬さんは起業早々、業界の壁に当たって苦労されたんですね。私は建設業に長年勤務していましたからよく存じていますが、エレベーターの保守管理というのは、メーカーにとっての最大の収益源ですから、何としても守りたい聖域だったはずです。彼らはビルの新築時の工事費は価格競争に伴う値引きが大きく、時には赤字になっても受注したがるのは、その後の保守管理の仕事がおいしいから、と聞いています。それにしても異業種交流会から、取引先を獲得出来た、というのはラッキーだったですね。中国の若い女性の経営者というハンデを営業力に生かした行動力と情熱が、支援者の輪を獲得する原動力だったんですね。脱帽します
MIKIさん、30歳代女性
毎回更新を楽しみにしております。毎日の仕事や人間関係に悩むこともありますが、馬さんの歩まれた道に比べれば自分なんてまだまだだ、恵まれた環境に感謝しなければいけないと考えさせられます。
高畑利弘さん、60歳代男性
エレベーターの保守管理会社を設立したのに、大手メーカーの独占業界だった。ビルオーナーもこの慣習が当り前の時代であった。独禁法に反してる時代にもなお残っていたのですね。「異業種会社交流会」への自らの参加で顧客が増えていったのは持ち前の努力と情熱が実ったのです。 山之内さんとの出会いが人生を変えましたね!自らの苦労の体験者と出会い、山之内さんは自分と同じ苦労をされている筆者にできる限りの応援をしてました。 雨の中を泣きながら葬儀場へ向かうシーンはドラマですね!しかしまだこの業界には高い壁が立ちはだかっているようです。人生は無常~奇跡~ご縁 が今回のキーワード。とても感動的でした。
松川誠さん、60歳代男性
逆境の中で、いつもあなたは諦めないで打開しようとする力が生まれる。すごいね!!! 幼少期に培った能力でしょう。これも今だからこそ母親に感謝かな。 本文が長いので朝読むのが大変、写真サイズを小さくしてもあと一枚あるとすっきり読みやすいですよ。長文の必須条件ね、日経さん。よろしく