空港リムジンバスで最愛の人と出会う

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空港リムジンバスで最愛の人と出会う

2017年01月21日

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 前回まで、私が起業した東京エレベーターという会社をめぐりお話してきました。ここで少し、プライベートの人生がどうだったのか、お話したいと思います。ずばり、私の夫のことです。私の最愛の人で、かけがえのない夫。そして愛する息子の父親です。

  一つでも歯車が狂えば出会いさえかなわなかったかもしれません。運命の赤い糸とはよく言ったものです。夫とはそのような糸で結ばれていたに違いありません。初めて出会ったのは、成田空港と都心とを結ぶリムジンバスの中でした。 


■講師になり本の出版かなう


  エリックと付き合っていたころ。会社の経営も軌道に乗っていた画像の拡大エリックと付き合っていたころ。会社の経営も軌道に乗っていた その前に、私の状況がどうだったのか少し説明がいるかと思います。

  2002年を過ぎたあたりから、会社もきちんと人を雇える状態にまで安定し、私自身へ給料も出せるくらいになりました。一段落ついたな、とホッとしていたときでした。勉強会や交流会に参加していた私は、「最新の中国ビジネスについて非常勤講師をしてほしい」と、銀座にある社会人学校の校長先生から頼まれました。経営者であること、中国での弁護士の資格を有していることから白羽の矢が立ったのです。

  私は講師など務めたことがありません。ですがこれを機に少しでも多くの日本のビジネスマンの方たちに、中国のビジネス情報や事例を広めたいと思い、夢中で準備し、月1回、社会人の集まる講座の教壇に立たせていただいたのです。

  ところがあるとき倒れ、1週間に3度も救急車で運ばれるほどの体調悪化に見舞われました。気が抜けたようになって立てなくなったのです。会社が安定したため、確固たる目標を失いかけていたのでしょうか。それでも、運ばれた病院のベッドで落ち着いた後、なぜかお見舞いに訪れた知人に「私は本を書きたい」と打ち明けていました。これを次の目標にしたいと思ったのです。

  講座のある日に当たっていた翌週、まだ人から支えられなければ歩けなかったので、「こんな状態なら今晩の講座は欠席しても罪にはならない」と思いました。ですが校長から、私の講座を受講するために茨城県や静岡県から来ている人がいると聞いていたので、彼らをがっかりさせたくない一心ではうようにして銀座まで行き、講師を務めました。そのうち元気を取り戻し、意図することなく「私はこれから本を書きたいです」と、聴講していた人々に向かって宣言したのです。

  するとなんということでしょう。この講座に出版エージェントの編集者が学びに来ていて、1週間後、「馬さん、本を書いてみませんか」と声をかけられたのです。びっくりして思わず「私がですか? 何の本を書くんですか」と返してしまったくらいでした。彼は「中国ビジネスについて、日本人向けに日本語で、書くんです」と勧めてくれました。

  私はかねて、中国と日本の懸け橋になりたいと思っていました。最初は中国人に向け、日本の良いところを紹介する本を想像していたのですが、中国のビジネス情報に精通している自分こそが、このテーマを語る使命を持っていると奮起して、チャレンジすることにしたのです。仕事をしながらの執筆で苦労しましたが「最新中国ビジネス 果実と毒」(光文社)を2003年に出版することができました。 


■順風満帆の仕事人生、でも


  おかげさまで本は話題になり、ヒットしました。ちょうどその時期は中国が世界貿易機関(WTO)に加入して間もないときで、日本企業の間では中国進出がキーワードになっていました。規模の大小問わず、中国へ行くなら今だと、日本中が沸き立っていたように見えました。一方、中国の変化が早すぎて、詳しい状況がわからないという声も数多くありました。そのような時代の要請のなかで、私はこの本を通して、貴重な情報を提供できたと思っています。

  出版すると、あれよあれよという間に、あちこちから講演や講師として招待され、メディアから取材依頼が舞い込み始めました。JETRO(日本貿易振興機構)の講師や、経済産業省のグローバルアドバイザーを務めることにもなりました。東京エレベーターでも副社長から社長に就任することになり、また、中国で法律事務所を立ち上げ、中国に進出している日本企業を顧客として多く抱えるようになっていました。数多くのパーティーに招待され、来賓として赤い花をあしらった名札を胸に付けていると「馬先生、馬先生」と呼ばれることも増えました。30代後半、キャリアウーマンとして脂がのり、順風満帆の仕事人生を送っていたのです。

  仕事でやるべきことを追求すればするほど、生活の軸は仕事中心になっていきます。将来を見据えてお付き合いしていた男性はいましたが、私が仕事を続けることに意見が合わず、結局別れざるを得ませんでした。しばらく精神的に引きずってしまい、恋愛感情を持つことをなんとなく避けるようになりました。

  ですが心のどこかでは、自分を理解してくれるよきパートナーをずっと求めていました。何かの本で「願い事は書き出す。それをいつも目に付くところに置く」と読んだ私は「うん、やる価値あるな」と思い、2004年12月、手帳に「すてきな人に出会いたい」と書き込みました。覚えているのは、日付を入れたからです。それをベッド脇の台の引き出しに入れ、寝る前にいつも見るようにしたのです。 


■「May I?」隣に座った人


  当時、東京と大連を行ったり来たりしていた私は、アクセスの良さから、成田空港と都心を行き来するリムジンバスを頻繁に利用していました。

  2005年1月のある日。中国出張を済ませ日本へ帰国する朝、大連の家で午前4時に起きて、7時ころの東京行きのフライトに乗りました。到着後、成田空港で東京シティエアターミナル(T-CAT)行きリムジンバスに乗り込みました。オフィス近くの水天宮で降車できるので、とても便利なのです。成田空港とT-CAT間は、乗る場所にもよりますが1時間強~1時間半。この間、眠っていこうと、窓側の席に座りました。

  いつもはすいているのですが、次の停車所で、人が大勢乗り込んできました。隣の席を空けるため、持っていたキャリーバッグを自分の足元の狭いスペースに収めたので大きく足を広げ、またぐように座らざるを得ませんでした。「こんなに足を広げては、ちゃんとした女性弁護士の経営者としていかがなものか」とちらっと思いましたが仕方がありません。動き出したバスの窓から、外を眺めていました。そのときです。

  「May I……?」

  声の主を見上げると、白髪交じりで雰囲気のいい西洋人の男性が、にっこりして私の隣の空いた席を指さしています。2つめの停車場所であるターミナルから乗り込んできたらしい。「オフコース」と答えると、その人は狭い席に体を滑り込ませ、雑誌を読み始めました。ひょいとのぞくと見たことのない、木や森に関する外国の雑誌のようです。つい「それは何に関する雑誌ですか」と声をかけてしまいました。

  彼は私を客室乗務員だと思ったらしく(度重なる出張で、旅慣れていたように見えたからかもしれません)そのように聞いてきましたが、私は会社経営をしていると言いました。「おぉ、あなたは経営者?」など、それが話の糸口になり、その後いろいろな話題に花を咲かせました。その会話から、お互い共通したところがあるとわかりました。外国人で東京に住んでいて仕事を持っている。それだけで打ち解けた気持ちになりました。

  「この人と改めて、もう一度会いたい。友達になりたい。」話し始めて10分くらいすると、私の内なる声が強くなりました。笑いが絶えなかったこのバスの中の会話を、彼もずいぶん楽しんでいるように見えました。ですが「また会いませんか」と、私からは切り出せませんでした。

  ――私は慎み深いアジアの女性で弁護士、しかも経営者よ? 出版して結構名前も売れているし。私から誘うなんてできないじゃん!――

  どうしようか頭のなかで考えを巡らしましたが、プライドも邪魔して、その一言がどうしても言えない。会話が弾んだ分、到着時刻はすぐ迫ってきました。もうすぐT-CATに着いてしまいます。「彼から絶対聞いてくる。待っていよう」。彼からの誘いを待つことに賭けました。

  あと10分……7分……。気が気でありませんでした。まだ聞いてこない。刻々と到着時間が近づきます。あと5分。――今聞いてこなければ、この1時間だけのご縁。仕方ない。これまでだったね―― 

 あとほんの少しで到着というころ。彼がおもむろに「今週末、お食事でもいかがですか」と声をかけてくれました。やったー!

 うれしくて、ジャンプしてガッツポーズを取りたいところでした(笑)。いや、いけない、私は慎み深いアジアの女性で弁護士、しかも経営者。顔を伏せがちにして声を抑え、すまして「オフコース、いいですね」と言いました。そして連絡先を交換し、バスを降りたのです。

  まさかこの人が、後に夫になるとは! 彼によると、韓国の現地法人へ出張した帰り、東京行きのフライトに乗り、私とは別のターミナルに到着してリムジンバスに乗ったそうです。普段はこのルートは利用しておらず、このときたまたま乗った便で私と偶然乗り合わせたわけです。まさに千載一遇のリムジンバスでの出会い。引き出しに入れた、願掛けの「すてきな人に出会いたい」1カ月で私はかなえたのです。 


■ウィリアムソンさんの涙


  この白髪の紳士、エリック・ウィリアムソンは、中国での事業を任され、80年代から中国へ頻繁に訪れていたことから、中国の社会や文化に深い知識と理解を持っていました。私が中国に関して話すことをすぐ理解したので、会話はとてもスムーズでした。

  エリックはスウェーデン出身で、東京・広尾に住んでいました。私と年齢が15歳、離れています。30代から海外で過ごし、私と出会った当時はスウェーデン空調機大手のムンタースという会社でアジア地区の責任者を務めていました。同社は50カ国で事業を展開する、産業向けに温湿度の調整装置製造・販売を手がけているグローバル企業です。

  私がエリックに出会ったときはかっぷくのいい、いかにも欧州人といった風貌の55歳のエグゼクティブでした。自分の似合うスタイルを熟知して品良くビジネススーツを着こなしています。色つやよくいつも笑顔をたたえ、太い体幹で全身が笑っているような、オープンで陽気な性格です。

  そのうち、お互いの生い立ちや、日本で暮らし、仕事をしている経緯を話すようになりました。私は今までの自らの人生を語りました。中国大連で、男尊女卑の考えを持つ両親の下、長女として望まれない生を受けたこと。大人顔負けの量の家事を毎日こなすなか、いつか「大きな世界に行きたい」と願った幼い日々のこと。子どものことよりお金に執着する母親とのあつれき。奇跡が重なり、日本への留学をかなえ、働きながら勉学に励んだこと。早稲田大学に入り長じて博士号、そして中国で弁護士の資格を取り、その間に日本で起業を果たしたこと。業界の古い慣習や社員との壁に悩み、解決するために挑んできたこと――。

  ミスター・ウィリアムソン(そのときはそう呼んでいました)は私の話をよく聞いてくれました。どうやって私が来日したのかも興味を持っていました。普通の中国人は日本に来ることすら難しいと知っていたからです。

  ――夢だった来日は奇跡的に実現しました。でも日本でいろいろありました。私が来て間もないころ、4時間ほどの睡眠でアルバイトと勉強に追われ、人からは「中国に帰れ」って言われて。つらくてつらくて、アパートから巣鴨駅までの夜明け前の道を、泣き声を押し殺して通ったの。駅に近づくと、明るくライトがついていて、人に顔を見られるのがいやで、涙をぬぐって電車に乗ったの。学費と生活費に回すため100円のパンも買うのを我慢して、パン屋さんから流れてくる香りをかいで自分をなぐさめていたの。それでちょっぴり、幸せな気分になって――。そう話したとき、彼はこんなふうに言いました。

  「あなたが100円のパンを我慢していた一方、私は家賃の100万円を使える立場にいたんだ。中国人の女の子が日本に来て、起業して会社経営! 並大抵のことではできない。中国から来るだけでも信じられないのに。日本は、外国人にとって決して過ごしやすい場所ではないよ。外国人に心を開くような社会じゃないだろう? 大変だけど、経済的なことをいえば私は会社に所属しているから、予算をもらって使える分がある。あなたは何もないところからスタートした。身一つで日本に来て、この立場を築いたとは驚きだ」

  しばらく沈黙した後、ウィリアムソンさんのくっきりとした二重のきれいな目――私によく自慢していた、「何人もの女性がきれいだと言ってくれる」緑色の瞳――に涙が浮かび、すーっと頬を伝いました。私の身の上話を聞いて泣いた人は、今までいませんでした。涙ながらに彼は静かに言いました。「私はあなたを心から尊敬する」

  それ以降、私たちは急接近しました。 


■抜群の理解力


  エリックは理解力が抜群にある人でした。短期間で、私という人間を非常によく理解してくれるようになりました。

  たとえば私は、言いたいことがあるとつい、ガーッとまくしたててしまいます。彼は私がまくしたてている間、指を組んで頭をうなだれています。まったく反論せず、間ができると「あなたが言うことは正しい。私をこんなに心配してくれるのは、英華だけ」とほめ続けるのです。拍子抜けする私を尻目に、「じゃあ今日の話し合いはここら辺で。あ、それはそうと……」と切り上げ、ほかの話題に変えられると、私はなんだかもういいやと思ってしまうのです。

  私はスウェーデンの文化をまったく知らないで振る舞っていたのですが、後々知るようになって驚きました。一般的に、スウェーデンの人たちは内気で、あまりはっきりと感情表現をしません。特に男の人たちは、女性がこのように感情的にまくしたてれば、これを理由にさっさと別れてしまいます。私がエリックにしたことは、スウェーデンでは考えられないくらいひどいことだったと反省しました。

  彼は若いころから海外で過ごしていたため、異文化に理解がありました。加えて、私を尊敬し、私の長所も短所も、子どもっぽいところも、すべて受け止めて理解してくれたのです。問題があれば真摯に説明してくれました。私も、なんでもエリックに相談するようになっていきました。尊敬と理解、そして愛でしっかり結ばれた関係に、私はとても幸せでした。

  包容力のあるエリックが私にとって特別な存在になっていくにつれ、私には切実な問題が迫っていました。そして信じられないことに、付き合いだして日も浅いのに、彼の母国帰任の日は近づいていました。その話は、次回に。


読者からのコメント


普通の会社員さん、20歳代男性
いつも仕事のアイドルタイムを利用して、馬英華様のブログを拝見しております。 次回のブログも楽しみにしています。携帯のリマインダーに登録させていただきました。 更新されたらいち早く読みたいと思います。 いつも素敵なブログをありがとうございます。

けいこさん、40歳代女性
並々ならぬ努力と情熱で、人生を切り開かれていらっしゃるお姿に、毎回励まされ、大きな力をいただいております。  人生を大きく変える、素晴らしい方との出会い。 毎回、次の掲載を楽しみにしておりますが、今回は特に次回を楽しみにしています。  いつも人生に対する前向きな姿勢の大切さを教えてくださり、ありがとうございます。

昌美さん、50歳代女性
馬さんの日本語の使い方が大変お上手なのには感服致しました。馬さんは独身のキャリアウーマンかと思っておりましたら、ご主人様とお子様がいらっしゃるとは驚きでした。不思議なご縁でご結婚されたエリックさんと英華さん。よきパートナーとして、末永くお幸せに… 次回も楽しみにしております。

堺谷光孝さん、60歳代男性
今回のブログはほのぼのとしたお話で、ハッピーな気分になりました。最高の理解者とリムジンバスで偶然隣り合わせに座って、会話が盛り上がるとはなんという素敵な出会いでしょうか。 馬さんは中国語と日本語だけでなく、英語も堪能なんですね。スウェーデン人で中国や日本を理解している方は少ないと思いますが、馬さんを理解するだけでなく、日本と中国の架け橋になって活躍される馬さんを尊敬する、理想的なパートナーとめぐり合い、親しくなれたのは、まさに幸福の神様のプレゼントでしたね。

スーパーなおちゃんさん、30歳代女性
今、仕事終わりにコラムを読んでいます。 ご主人との奇跡の出会いの内容で読んでいて幸せな気持ちになりました。外国から日本に来られて会社の経営までされている、本当にすごいです。私も、今の仕事が時々つらいですが、頑張ります。

高畑さん、60歳代男性
ビジネスウーマンとして仕事に熱中している時期に、乗り合わせたリムジンバスの中での奇跡の出会いは運命ですね!聞き上手の素敵な紳士との出会いはまさに神よりのご褒美です。キーワードは「OF COURSE」でしたね。