「女で外国人」の二重苦 就職氷河期で背水の陣

MEDIA

「女で外国人」の二重苦 就職氷河期で背水の陣


2016年11月04日

メイン画像


 私は数々の困難を乗り越えて1988年に来日しました。大連外国語学院初の私費留学生として、「就学生」という立場で約1年間、日本で勉強することになりました。日本での大学進学の保証がない、語学学校で日本語を学ぶためのステータスです。両親から経済的援助を受けずやりくりする決心をしていたので、働きながら勉強していたことはすでにお話しました。アルバイトを見つけるにも、外国人だったために100件くらい電話して、ようやく面接にこぎつけるような大変な時代でした。

  1年間の期限の終わりに近づいていた89年6月、私の人生を変える大事件が母国で起こりました。いわゆる天安門事件です。それまで、日本に残って大学進学するか、中国に戻って、籍を残している大連外国語学院へ復学するか、ずっと悩み続けていました。後者であればもう教職は約束されています。将来は安泰といえました。一方、日本に残る選択をすれば、大連外国語学院の復学、そして約束された将来を蹴ることになります。志望校に受かればいいのですが、その保証は何もないのです。受からなければ学生ビザはなくなるし、復学の道はすでに閉ざされているし、リスクは大きいものでした。

  その日、テレビで天安門事件が映し出されていました。自分と同じ年齢の、大勢の若者たちの映像に「大変なことが起こった」と涙が止まりませんでした。そして思ったのです。ここで中国へ帰ったら、その後しばらく、国を出て日本へ行くのは難しくなるだろう。日本での生活に徐々に慣れて、最初は好きになれなかった日本が、好きになっていました。日本のいいところをもっと勉強したい。短い期間で経済が発展したわけを知りたい。十分それを知らないまま、帰れない――。

  私は日本に残ることを選び、復学の機会を自ら見送りました。日本の大学に受かる保証がないことは、大きな不安でした。教職は夢ではありましたが、中国のこれからの経済的発展を確信していたので、自分で新たな事業を試したいと漠然と感じていました。曽祖父の日本との貿易といい、父の石炭ビジネスといい、馬家に流れる進取の気性の血が、騒いだのかもしれません。

  退路を断ったことで、何が何でも日本の大学に入らなければなりません。背水の陣の戦いが幕を開けました。勉強の手を緩めるわけにはいきませんでしたが、一流大学がだめでもその下のレベルの大学なら受かるだろうと踏んだのです。 


■大学入試、日本人と同じ条件で


  私は来日したとき、日本の大学では早稲田大学以外、あまり知りませんでした。同大の名前は中国で知らない人がいないほど有名です。というのも、中国の重要人物、たとえば李大●(●はかねへんにりっとう、り・たいしょう。政治家、中華民国時代の中国共産党創設メンバー)や陳独秀(ちん・どくしゅう。政治家、著述家。中国共産党創設メンバーで初代総書記)といった人々が約100年前に早稲田大学に留学していました。今でも広く読まれている、彼らが著した文章の中には、同大への言及があります。そのため早稲田に行きたいとひそかに思っていました。

  ですが、志望していた法学部は難しいと聞いていました。言葉が重要な役割をはたす法律を学ぶのは、外国人にとって、とてもハードルが高いと考えられていました。ビジネスに興味を持っていた私は「法律を学ぶことは、将来、自分の身を守ってくれる」と固く信じていたので、法学部に照準を合わせて勉強に励みました。

  受験したのは89年、大学入試センター試験の外国人版といった位置づけの試験(当時は日本国際教育支援協会が実施していた「私費外国人留学生統一試験」。2002年に開始された、日本学生支援機構が実施する「日本留学試験」をもって廃止)で、大学入試に先立ち行われます。日本語で実施され、応募大学での選抜に使われるので好成績を取る必要がありました。そして日本語能力測定のための「日本語能力試験」。多くの大学で選抜目的で利用されており、これには最上位級を取得する必要がありました。

  統一試験は文系では数学、世界史、英語があり、全体では2000人ほどの外国人受験者数でした(今年6月時点で約2万4000人)。設問は例えば世界史だと「オランダの法学者で貿易・航海の国際的自由を主張し、国際法の父と呼ばれている」人物の名前と、代表的著書をマークシート方式で選ぶというような、幅広い知識が求められるものです。

  その後に控える大学試験は、日本人受験生とまったく同じ条件、同じ科目で行われます。早稲田大学も例外ではありません。日本史や数学、社会など科目にあり、すごく難しくて、落ちたと思いました。面接もありました。練習してちゃんと応対したと記憶していますが、覚えているのは、試験後すぐバスに乗り、次の志望校だった明治大学の願書を提出しに行ったことです。

  なんと結果は合格。大連の大学の復学を蹴ってまで日本で勉強したかいがありました。外国人新入生の歓迎パーティーで、法学部の主任教授が「馬さんは、度胸がありますね」と声をかけてくださいました。面接を担当した教授の一人だったのです。意味がわからず、近くにいた人に「度胸って何ですか」と聞いたら「ほめられたんですよ」と言うではありませんか。帰宅してから辞書で調べたら「物事に動じない心」とあります。とてもいい言葉だと思いました。今でも、度胸という言葉は私にとって特別です。

  入学したら、外国人の先輩はいなかったので、いろいろなことを自分で解決しなくてはなりませんでした。最初は、講義の日本語が十分にはわからないので、必死でした。授業では一番前に座って、一言ももらさず先生の言うことを聞いていましたが、時折、わからない言葉の多い憲法の授業では居眠りしてしまうこともありました。

  疑問があれば、それぞれの教授の部屋によく質問しに訪れました。英国人の英語教授がいて、中国で覚えた碁を打ちたいから相手になってくれと言われ、英語を習う気持ちで囲碁を打った思い出もあります。 


■人事担当者、内定をいいことに……

 
 夢中で勉強に明け暮れた3年間はあっという間に過ぎていきました。前に書いた通り、親から仕送りはないので、バイトもしていました。この3年で、日本の経済状況は著しく変わりました。入学は90年、まだバブル華やかなりしころです。そして就職活動を始めた93年にはすでにバブルがしぼみ、企業の採用意欲も急に衰え出しました。

  私は就職希望でした。はやく経済的な悩みを解決したかったのです。できれば本当は、安定している公務員になりたかったのですが、外国人は受ける資格がないので選択肢にありません。日本人でないなら、これからどうしたらよいのか、自分は何ができるのか。悩む日々でした。

  おりしも、これまでで考えられないほど就職が厳しくなって、「就職氷河期」といわれる、新卒採用がない時期が到来。特に女子学生の就職は話にならないくらい悲惨でした。調べてみたら94年11月6日付の日経新聞でこんな記事がありました。「今春大卒の就職率、戦後最低水準の70.5%どまり――女子67.6%」というタイトルで、「今春、大学を卒業した学生の就職率(卒業者に対する就職者の割合)は昨春から5.7ポイント低下し、70.5%となり、事実上、戦後最低を記録したことが、文部省の学校基本調査でわかった。中でも女子学生の状況は深刻」。バブル時代は80%を超えていたのに、一転、このような状況に変わったのです。

  クラスを見渡してみても、男子で早々と内定をもらっている学生は一部いたものの、法学部でさえ、就職浪人にならざるをえないという男子学生はたくさんいました。女子のクラスメートは8人いるうち、ほとんどが公務員に決めていました。

  国際的に働けると思い私は商社を志望していましたが、当時女性は、営業活動や転勤が伴う総合職と、事務を中心とした業務の一般職に分かれているのが普通でした。行きたい商社は一般職しか募集がなく、男性と同じように働きたいと思っていても、一般職で入るしかありませんでした。

  50社くらいに応募したなかで面接までこぎつけたのは、希望していた商社と、保険会社のセールス職の2つのみ。そのうち、商社から内定をもらいました。やっとのことでもらった内定を非常にうれしく思い、ようやく社会人として来春から一歩踏み出せると安心したのです。

  その会社が内定者を集めてパーティーを催したときがありました。内定者は全員で5人ほどでした。その帰り、人事担当者(けっこう年が上でした)から「あなたの家でお茶したい」と言われたのです。時間は夜の10時をまわっていました。おかしい、いまから私の部屋でお茶? もちろん、この意味するところは明白でした。

  内定保持の条件ですかと聞いたらそうだと言いました。つまり、要求を断ったら内定を取り消すと彼はほのめかしたのです。女子学生一人の内定などどうにでもできる、そのくらいの立場の人物でした。

  イエスと言えるわけがない。でもここでノーと言ったら内定を取り消されるだろう。就職するのがこんなに難しい状況で、私はこの後どうする?

 もう学生ではないからビザがなくなる。日本にいられなくなったら、中国に帰るしかない。約束された職を蹴って日本に残ったのは、何だったのか。女だし、バブルも終わっている。内定を取り消されたくないばかりに、この中国人女子学生は表だって声を上げないだろう、そうすれば自分を受け入れざるをえないとこの男は踏んだ。

  ひどい気分になりました。女に生まれ、男尊女卑の考えの両親のもとで、家事の一切と妹の養育を5歳でまかされました。ののしられながら、女だからお金をかけるのは無駄だと母に言われ続け、自殺を考えるくらいに思い詰め、それでも認められたいために勉強してきました。苦労して日本の大学に入って、この期に及んでまだ、女だからいやな目に遭わされる――。こんな侮辱は我慢できない! はっきりと言いました。「お断りします」

  その代償に、まもなく私は、内定を取り消されました。  ああ、こんな目に遭うなんて、日本はダメな国だ。米国へ行こう。そんな考えもよぎりました。突き詰めると私は一般職には就きたくなく、それにはプロとして生きていくよりほかはないと再認識しました。ならば専門知識をもっと付けなければと思い直し、急きょ大学院進学を決意しました。大学院進学の試験を準備するには大幅に出遅れていたので、担当教授に相談にかけこみました。

  大学院でその教授が教える会社法をテーマにした研究室に入りたかったのでそう話したところ、先生は「日本人でも何年もかけても入れない人がいる」と言います。制度上、自分の研究室を希望する者の試験は採点せず、ほかの先生がやるから、いくら入りたいといっても便宜は図れませんよとクギをさされました。

  それでも頼み込むとはっきりおっしゃいました。「受けるのはかまわないが、責任は自分で持ちなさい」。つまり試験に落ちた時のケアは自分でしなさい、という意味でした。試験まで数カ月しかありません。またもや、背水の陣で勉強することになったのです。

  先生の出題した過去約30年間の問題をつぶさに調べると、だいたい4年くらいのサイクルで似たような出題がされる傾向があるとわかりました。時間がないので、山掛けの戦略を取り、準備に取りかかりました。文字通り、勉強漬けのカウントダウンが始まりました。 


■鬼に追いかけられる夢に助けられる

 
 試験の2日前の夜。よほど試験に対して緊張していたのか、焦っていたのか、夢を見ました。教室のなかで私は子鬼に追いかけられています。ぐるぐると、必死で走っています。先生は教室の真ん中に座っており、私は助けを大声で呼んでいます。だけど先生はカラカラと笑うばかり。ぜんぜん私のことを救うつもりがないと、私にははっきりとわかりました。

  この悪夢に飛び起きました。夢の意味を分析してみると、あの高笑い、先生は助けてくれない。このままでは受からない!

 私の山掛け戦略を見透かして、先生は過去の問題から出題しないに違いない。この勉強法は間違っている。だからほかの方法を考えなさい――。それがメッセージだと直感しました。肝を冷やしました。試験は明日に迫っています。  こうなったらローラー作戦です。先生の教科書と参考書、過去に出版した著書(7~8冊くらいあった)の全部のページを見て、ページごとにキーワードを抽出し、骨だけ理解していくことにしました。寒かったので毛布をかぶり、早朝からほとんど飲まず食わずで、試験当日の朝の4時ころまで集中して見直しをしました。

  当日、朝9時。試験が始まりました。問題を読むとやはり思った通り、4年のサイクルで出題されるとみていたものとまるで違う、初めてのパターンでした。頭はさえていましたが、夢の通りだという、そのショックで半時間くらいぼうぜんとして、解答に手が付きませんでした。

  周りが問題を解く、かりかりという鉛筆の音で我に返りました。このままではいけない!

 残りは1時間。落ち着いてよく見ると、昨日おさらいした部分を使える設問があります。パーツごと覚えているものを、建物を組み上げるようにしていくと、自然と答えが導けました。あ、この部分はどこの教科書の○ページにあったな……と、目がカメラのようになっていて、そうしたイメージで対応できた部分もありました。昨日、ざっと抽出したキーワードと、骨組み理解のおさらいは非常に効果的でした。

  それでも試験が終わった後は放心状態。まったく記憶がありません。帰りに寄った池袋西武のデパートで、あてもなく歩き回り、エスカレーターに乗って、上下階を行ったり来たりしていました。試験に落ちる気がすごくして、落ちたら大学院には入れない、ビザは切れる、仕事もない。的外れに違いないのですが、先生のせいだとうらむ心境でした。

  1カ月後、発表の日。学校に見に行って、受験番号がとても長かったのですが、最後の数ケタの番号は覚えていました。その数字が黒々と書かれている掲示を見て、喜びがわきあがりました。私は合格したのです。2人だけ合格の狭き門でした。

 ◇     ◇ 

 今でも、大連外国語学院で同級生だった友人たちに会うと、私は英雄視されます。もちろん友人たちは順調な人生を送り、多くが大学の先生や貿易関連の仕事で成功していますが、私のように国から与えられる仕事を蹴ってまで別のキャリアを選択する人は皆無でした。無謀ともいえる決断に「考えられない」と彼らは口をそろえて言います。

  退路を断って日本に残り大学受験に挑んだこと、女性だから嫌な目に遭い就職をあきらめざるをえなかったこと、大学院に進学するため必死に勉強したこと、すべて崖っぷちに立たされた状況からはい上がり、逆転させてなんとかつないだ道でした。そんななかで、夢のメッセージで助けられたことも、不思議といえば不思議です。まさに背水の陣。それでも、追い込まれてからこじ開けた道が、その後、私を思わぬ運命へ導いてくれるのです。


読者からのコメント


20歳代女性
馬さんが日本で受けた侮辱の数々を、日本人として大変申し訳なく、恥ずかしく思います。

50歳代男性
毎回楽しみに拝読しています。 馬さんの不屈の精神と強い信念には心から感服します。 さまざまな転機で運も味方したのかも知れませんが、それを引き寄せたのは間違いなく馬さんの努力と精神力だと思います。

初見さん、60歳代男性
背水の陣で、困難を乗り越えてきた、馬英華さんの強い精神力と度胸に感服しました。

高畑さん、60歳代男性
私費留学生として早稲田大学に入学しその翌年はあの天安門事件が起きました。中国では当時の学生達は労働にかりだされた時代ですね! 卒業時の日本はまさに就職氷河期で結果的には商社の一般職を蹴飛ばして正解でしたね。早稲田の面接官だった教授のいった「あなたは度胸がありますね」は、受け継がれた革新の血が流れているのではと感じます。それにしても不屈の精神力には感服するばかりです。

堺谷光孝さん、60歳代男性
馬さん、文字通り背水の陣で、大学受験と大学院受験という難関を突破されたんですね! 私は京都大学の法学部にいましたが、大学院を受験して落ちた経験があるので、よく分かります。日本人でさえ難しい試験なのに、外国人で女性というハンデを背負ってチャレンジするのは、並大抵の努力ではなかったと感心します。努力家であると同時に、人並み外れて優秀な女子学生だったんですね。

30歳代女性
自立心があり、何でも自分の力で乗り越えようとするパワー、本当に素晴らしいですね。 親や誰かを当てにせず、自分の実力で勝負するという事は、誰にでも真似できる事ではないと思います。 たとえ物質や状況に恵まれていなかったとしても、熱い想いや情熱があれば、運命を変える事ができるのかもしれないなと感じました。 こうしたお話を聞く度に、日本という恵まれた環境にいる事に、感謝しなくてはいけないなと痛感させられます。

MIZUHAさん、40歳代女性
大変な決断と苦労をされていらっしゃるのですね。 さまざまな時代背景とともに、自分の身もふりかえり、たいへん勉強にもなります。 ありがとうございます

徐洪志さん、40歳代男性
為せば成る