「孤児」と言われた富豪の娘 飢えに泣く

MEDIA

「孤児」と言われた富豪の娘 飢えに泣く

2016年09月23日


 私が高校受験に失敗したときに母は私を激しく責めました。途方に暮れた私は、ダムに身投げしようと家を出ましたが、内なる声を聞いて立ち直り、翌年、晴れて進学校の高校に合格しました。寮に入り、「これで母の顔を見ずに済む、もうののしられることもなくなる」とホッとしたのです。ところが、自殺騒ぎを起こした後でも、母の考えや私に対する態度は軟化しませんでした。母の存在はいつも私の反骨精神を引き起こすのです。

  高校に入ってまで試練が続くとは思ってもいませんでした。高校に入って私を苦しめたのは、飢えでした。 


■月10元でやりくりは無理


  受かった高校は地元・大連では5本の指に入る進学校です。自宅から遠い生徒は寮に入ることになっていました。9月、晴れて高校に入学した私は2段ベッドが4組ある8人部屋に入れられました。

  私は月に10元だけ生活費として母にもらうことになりました(当時のレートで200円程度、現在は約150円)。学費は国がまかなってくれますから必要ありませんが、食事や服、本、文房具など生活費の一切をここから捻出しなければなりません。10元は、当時の価値としても1カ月をやりくりするには不可能な金額でした。月に1度、翌月に必要な10元をもらうために実家へ片道2時間かけて鈍行列車で帰るのですが、その運賃だって往復3元かかるのです。残りの7元が、実質使える金額でした。

  母はきっぱりと、これ以上は出せないと宣言していました。「覚えておきなさい。あなたは私のお金を使っているのよ。回収できないから、本当に無駄金だけど」。そうしょっちゅう言われました。母と口論したくなかったので、これ以上の上乗せをお願いするのは早々にあきらめました。粘ったとしたって、どんなたくさんの、ののしりの言葉を我慢しないといけないか。しまいには手だって出ることもありました。黙っている方がよほどましでした。

  父にはこの苦境をどうしても言うことができませんでした。言ったとしても、家の財布は母が握っていたため父がお金を出すことは難しかったでしょうし、夫婦げんかなど家庭不和をもたらしたくなかったのです。離婚してしまったら、弟や妹はどうなるでしょう。父には秘密にしなければなりませんでした。

  それでも7元で1カ月はどうしたって無理。服や本にはある程度まとまった金額が必要でしたから、その他で切り詰められるのは、食費しかありません。まさに爪に火をともす学校生活が始まりました。育ち盛りの高校生がいつもおなかをすかせていなければならないのは、とてもつらいことでした。

  実家が貧乏ならば、苦しくても納得がいきました。自分自身もそうだし、周りの人たちへも、家が貧しいということで、話の筋は通るでしょう。しかし、我が家は父が始めた石炭ビジネスで、家計は豊かだったのを知っていました。経済的余裕があるというのに、食べるのにも事欠く生活を強いられる私は「なぜこうなるのか」と、その矛盾から、身が引き裂かれるような思いをさせられたのです。

  学校には学食がありましたが、私はそこで夕食を食べたことがありませんでした。日本円にして1食、数円の食費が捻出できなかったのです。お昼だけ食べて、夜は食べずに我慢していました。 


■「あなたは孤児なの?」


  同じ寮の部屋で暮らしていると、8人のお互いの家庭環境をすっかり把握するようになりました。彼女たちのほとんどは農家の出身で、親が週末になると部屋に来て、どっさり食べ物を置いていきます。置いていくのは鶏卵やトウモロコシ、ピーナツといった農作物。来るとにぎやかに話をしていきます。同じ部屋なのでその様子は逐一わかります。「これが親子の会話か……」。私の家庭にはあまりない、楽しい、気の置けない雰囲気。そして同級生たちの甘える態度や、照れ隠しにわがままを言う様子を横目で見ていました。訪問した親が「○○ちゃん、毎日ちゃんとおなかいっぱい食べてる? 今日は卵を持ってきたよ」などと言うと「おなかいっぱいだよー、こんな物もらっても食べきれない」とか、「お母さん、恥ずかしいからもうここに来ないで」とか口答えするのです。

  彼女たちの親と打って変わって、私の両親は寮にほとんど来てくれませんでした。父は忙しかったのか、1度も来なかったし、母も年に2度くらいだったでしょうか。食べ物を送ってくれたとか、持ってきてくれたという記憶はありません。

  母が来たある日のことをよく覚えています。私のお金の使い方が無駄だとか言ってすぐ私をののしり始めたのです。「あなたはいいズボンを買ってはいているけどね!」と声を張り上げました。「学校で出されるいい食べ物も食べているけどね、それは私のお金なのよ。私は苦労してあなたにお金をあげているから、家でいい服なんて買えやしない」

  母は、私がいったい、勉強しながらどれだけ飢えと戦い、ぎりぎりまで節約してこのズボンを買ったか知らないのです。そう言おうとしてのど元まで出かかり、息が苦しくなりました。でも彼女は反論だと受け取るだろうし、さらにひどい言葉を投げつけてくるだろうと恐れたので何も言いませんでした。なごやかさのひとかけらもないまま、母は帰りました。もちろん、私への手土産など望むべくもありませんでした。

  狭い寮の部屋の中なので、当然、ルームメートたちには筒抜けです。母が帰った後、一人が私に聞きました。「馬さんって、孤児なの? あなたが家に帰っているの、見たことないわ」

  確かに、月に1回帰省するときも、母がいる家は居心地がいいとは言えなかったので、授業が終わった金曜日午後、だれよりも遅く学校を出て、土曜日の午後、がらんとした寮にだれよりも先に戻っていました。私が帰省するところをだれも見た人はなかったのです。ルームメートの問いが、心に突き刺さりました。「え、孤児じゃないよ。両親、ちゃんといる。家にも帰ってる」。そう答えるのがやっとでした。

  その夜、同じ部屋の子たちが寝静まった後、私は部屋を抜け出して校庭の一角にあった公園に行き、ベンチにしゃがみこみました。だれにも見られたくなかったのです。昼間言われた言葉が頭をぐるぐる回ります。「孤児」――。涙があふれました。

  ――お父さん、お母さん、来てくれないのが心底さびしい。でも、来てもひどいこと言うし。親がいないわけじゃないのに、どうしてこういう思いをしなくてはならないのか。せめて食べ物だけでも送ってくれればいいのに。血がつながっている親子なのに、いったいどうして私はこんな仕打ちを受けないといけないの。我が家は貧しくないどころか、商売やっていてお金はいっぱいあるのに、そのお金をちょっとでも私に使ってくれないのは、どういうわけだろう。他の子のお母さんたちは、豊かでないなかから毎週、物を送ってくれているのに、あの子たちは文句なんか言っている――

  悔しくて、そしてさびしくて、北風の吹き始めた夜の公園で一人、泣きじゃくりました。いくら考えても、うずまく疑問は解けないのです。勉強に打ち込んでいい成績を取りたいのに、その先の大学に行くということに集中したいのに、理不尽さが、私の心を大きく乱しました。それよりも私を打ちのめしたのは、親の愛の欠如でした。

  それでも高校生になって、少しは強くなっていました。中学生のときに仲間外れにされ、いじめられたかつての私ではありません。弱みを見せたくないばかりに、教室では快活を装い、笑って明るく過ごしていました。でも、心は泣いていました。 


■学食で大盛りのお弁当


  私の担任は藤先生といいました。鼻が赤いのが特徴で礼儀正しく、当時の中国の先生としては権威的なところのない人でした。恋愛など許されない雰囲気のなか、生徒同士が付き合っていても何も言わなかったのを覚えています。彼は生徒をよく見ていました。先生は別の学校から赴任しており、高校に寄宿していました。寮に暮らしていた生徒たちとは接する時間が長かったので、生徒の生活環境はことさらよく見えたのでしょう。

  ある日、私は藤先生に呼ばれ、先生の執務室に行きました。先生の前に座ると、先生は私をのぞき込むようにして聞きました。「馬さん、正直に言ってほしい。夕飯を食べないのは、なぜかね」

  返答に詰まりました。私の倹約ぶりを見れば、食費を切り詰めていることは明らかなのですが、それを先生に言ったものかどうか。こんなことは先生といえども言いたくありませんでした。

  「あなたのうちは、貧乏なのですか」

  心の中で「いいえ先生、うちは貧乏ではないんです。その逆で、裕福なんです」とつぶやきました。でも、それを正直に言ったら、どうでしょうか。裕福なら、なぜ夕食を切り詰める必要があるのか、先生は質問するでしょう。すると母が守銭奴であることを説明せざるを得ません。裕福な親が、子供をここまで金銭的に追い詰めることなど、普通の人が理解できるはずがありません。説明するのは、とても惨めに感じられました。また、このころの中国は改革開放路線が始まったばかり。どのうちよりもいち早く裕福になったことを親は周りにだまっていましたし、私自身も、そのことを人に言うのははばかられました。

  「……はい先生、私のうちは貧乏です」

  先生に初めてうそをつきました。先生は少し間をおいてこう言いました。

  「わかった。じゃあ、こうしよう。私の妻が学食で働いているから、学食に来たら、来たと伝えなさい」

  学食ではお総菜やご飯、おまんじゅうなどそれぞれ幾種類かあって、選べばお弁当箱に詰めてくれます。私はお昼だけ、白菜ばかりのなるべく安い総菜を選んで買っていました。先生と話して以来、お昼にお弁当箱を持って行ってあんかけ野菜やご飯を買うと、先生の奥さんはいつもめいっぱい、大盛りに盛ってくれました。先生が奥さんに「馬さんが来たら大盛りにしてあげて」と言っていたのでしょう。そのおかげで、私はお昼に半分食べて残しておき、夕方にもう半分を食べて、空腹をしのぐことができたのです。

  冬になるとお弁当箱に残した分が夕方には冷え切ってしまうので、私は熱湯をかけて、野菜スープみたいにして温めて食べていました。それに気付いた藤先生は、「それじゃ、あんまりだ。ストーブにお弁当箱を置いておけばよい」と言ってくれました。教室のストーブの上にお弁当箱を置くようになり、温かく保たれた状態になったのでとてもありがたく、「これで私は勉強に集中できる」と思ったのを覚えています。 


■「転校は私が許さない」


  先生がなぜそこまで私に気をかけてくださったのかその時はわかりませんでした。後年、先生のお宅へ父とお礼を言いに伺ったときのことです。先生から理由を聞きました。早い段階から私の成績に目を付け「馬さんは絶対、一流大学に受かる。あの年に、うちの学校からもし一人だけしか受からないとすれば、それは馬英華だ」と確信を持ったそうです。

  「先生、なぜ私が合格するとわかったのですか」と聞いてみました。すると、高校での過酷な定期試験で――おおよそ1週間の試験期間中、7~8科目ぶっ通しで、何度も行われます――私はどの科目でも常に上位のランキングをキープしており、ここまで成績にぶれのない生徒はめったにいないと見込んだそうです。中国での受験競争は非常に厳しく、脱落するとはい上がれないというプレッシャーは大きいのですが、学校間の競争も激しいものがあります。大連にはいくつか進学校が存在していて、どの高校から何人の大学合格者を輩出できるかという、高校間の競争に先生たちも大変なプレッシャーがあるのです。藤先生は、私が必ず合格すると見込んだのです。そう確信を持ったから、惜しみない支援をしてくださったのです。

  それから一つ、驚くべき事実を先生から聞きました。初耳でした。

  「あなたが高校2年生の時だったかな、お母さんが一度、私に話をしに、高校までいらしたんですよ。地元の高校にどうしても娘を転校させたいと」

  「勉強してもどうせ大学なんて受かりっこないのだから、お金もかかることだし、今すぐここの高校をやめさせて、地元の普通レベルの高校に通わせたい、とね」

  「私は驚いてこう言ったんです。お母さん、この大事な時期に娘さんを転校させる意味がわかっているのですか。3年生になったらもう模擬試験ばかり。2年生の今、転校して慣れない環境にさせるのは、娘さんの人生を台無しにするということです。そんなことをするのは、罪人です」

  「あなたは、娘さんのレベルをわかっていますか。うちの高校は優秀な子たちが多くいますが、もし来年、たった一人しか大学に入れないとしたら、それは間違いなくあなたの娘さんですよ。担任の私が言うのだから、確かです」

  先生は私に言いました。「馬さん、本当に、お母さんはあなたの生みの親ですか。」動揺した私は「はい、そのようです」と答えました。

  「私はお母さんにも言ったんですよ。あなたは、本当に馬英華さんの生みの親なのでしょうか。そうであれば、転校などさせてはならない。絶対に! ご自身のお子さんの将来をつぶすことは、私が許しません。それでもやめさせるというなら、いますぐお帰りください、とね」

 ◇    ◇

  藤先生は、私を守ってくれました。温かい食事を取れたのも、学校にいられたのも、先生がいなければ、私はずっと空腹に苦しみ、気が散って勉強に集中することができなかったでしょう。恩師がしてくれたことは感謝してもしきれません。

  現在に至るまで、母は、私にだまって先生に面談しに行ったと認めたことはありません。そして転校させようとしたことも……。

  それ以上に私につきまとい、問題意識として植え付けられたのは、お金の価値と使い道のことです。高校時代に経験した「月10元」の試練は、その原点といえます。富豪と呼んで差し支えないくらい蓄えのたくさんあった家に生まれついた私が、なぜ飢えに苦しまなければならなかったのか。貧乏ならまだ納得がいったのに、自分の子どもが必要としている食事にさえ、うなるようにあるお金を使わないという考え、いったいそれはどこから来て、何のため――。

  「お金の価値と使い道」はその後、私が常に帰着する、大きなテーマになったのです。


読者からのコメント


20歳代女性
れました。 母の存在があったからこそ、負けず嫌いな自分の性格というものが、より色濃く形成されたのだと思います。 そして高校在学中は、素晴らしい先生に恵まれて、本当に良かったですね。 数々の難関や試練を、前向きな気持ちで乗り越えたからこそ、今の馬さんがあるのですね。 今回も、素敵なお話を、どうもありがとうございました。

30歳代男性
親が屑と言う話はよく聞きますが、私の場合は世間体だけは気にする屑と言う違いですね。 小遣いとかは一切貰ったことはないけど、食うにはさして困りませんでしたので。(まずいと言って1日半食わせて貰えなかった事はあったが) 注)日本人の日本の話です

寂恋法師さん、60歳代男性
馬英華なら出来るはずだ。その苦難の壁をクリアする毎に一回りも二回りも大きく成長して行くに違いない。その試練を乗り越えた暁には大空を翔べるイカロスの翼を上げよう。神さまは乗り越えられない試練や苦難は与えていない、ということでしょう。馬さんはきっと神さまに愛されているに違いありません。
   舞い立った英知溢れるイカロスは   華麗に駆けよ日中の橋

ヤナギダシンイチさん、70歳代以上男性
すごい経験ですね。命をかけて勉強する、言葉では表せられない精神力が感じられます。私にはとてもできそうにありませんが、こういう経験を乗り越えた方がおられる、と言うことは心の中に持っていようと思います。そして、同じような境遇にいる若い人をできるだけ支援します。

堺谷光孝さん、60歳代男性
藤先生は、馬さんを見いだし、守り抜いて世の中に送り出した恩人だったんですね!お金のことしか考えない、お母さんの冷酷な仕打ちから、馬さんを勉強に打ち込める環境にしてくれた、素晴らしい恩師ですね。読んでいて今日は涙が出てきました。高校生にとって、孤児だと言われるほど親の愛情の欠如を耐え、飢えにも耐えて優秀な成績を残すのは、大変な努力と我慢が必要だったでしょう。そんな環境に打ち勝って抜群の成績を残した馬さんの能力は感服ですね。

吉野のきこりさん、50歳代男性
馬さんのブログはもう何度か読ませていただいておりますがいつ読ませていただいても涙がこみ上げてきます。 そして自分の子供のころの環境がいかに幸せであったかを・・・ ただただ「ありがとう」です。

高畑さん、60歳代男性
高校での寮生活、月実質7元では満足は食事はできません ね。捨てる神あれば救う神ありで恩師の藤先生との 出会いは人生を変えました。 これまでの連載を読んで母親の態度は「反骨精神」の 為の修行を敢えてやっているのか~と少し考えてましたが そうではないですね?性格の悪い継母かも~? しかし「お金の価値と使い方」を学んだ事が宝ですね。