さよならは突然に 雪降る異国で途方に暮れる

MEDIA

さよならは突然に 雪降る異国で途方に暮れる

2017年02月17日

メイン画像


 夫・エリックのふるさとスウェーデンに私が初めて行ったのは、出会った年の8月でした。夏に同国を訪れた方はご存じかと思いますが、まさに夢の国のようです。

  木々は緑が濃く、空はどこまでも青い。遅く咲く菜の花畑が一面に広がっている向こうには、赤い花やピンクの花が咲き乱れています。家々は赤い屋根に黄色い壁でなんともかわいらしい。さらに、遠くに海を望める場所でした。

  「人間が住みうる天国のよう」ごみもほこりもないクリーンな環境、美しい風景に、心を奪われました。

  ここではあっという間に冬が来ます。エリックはストックホルムにも家を持っていました。冬は冬で楽しいものです。オペラハウスに行ったり、雪と遊んだりして、夏とはまた違う過ごし方があります。家の中に大きな暖炉があって、それはそれは快適です。家の中で過ごす時間が長い北欧で、室内での楽しみ方も知りました。夫の子どもたちや親戚とも会い、私は少しずつ、スウェーデンという国の文化を理解していきました。 


■過酷だった「ひとり親育児」


  子どもが生まれたとたん、今までの生活に大幅な変化が起こりました。どの家庭でもそうだと思いますが、私の場合、私自身が会社経営者だったことと、夫が外国人で、生活の場が日本にないということから、私を限界まで試すような事柄が押し寄せました。

  まず、出産直後の2月、エレベーター保守業務の入札の時期に突入しました。仕様書を読み込む必要があったし、会社とのやりとりも多く発生することから、産後1カ月ほどで仕事に復帰しました。ですが当然、授乳のため夜も起きていなければならず、自分にだってご飯の用意をしないといけない。日本には私の親戚も、エリックの親戚もいません。子育てしながら働く女性の知り合いもいませんでした。仕事は出産前と同じ量で発生し、社員は私の判断が必要でした。無理をおして働いたので、めまいのため、血の気が引いてまっすぐ歩けない状態が続き、精密検査を受けたこともありました。

  どうしようか行き詰まり、住んでいた区の役所へ相談に行きました。助けが必要な緊急度が高いということで、幸い、「保育ママ」(家庭的保育者、家庭福祉員などと呼ばれる在宅保育者)という制度に申請することができました。そこで紹介された、近くに住む保育ママに預けることになりました。子育て経験のある彼女のアドバイスに、どれほど助けられたかわかりません。うちの子みたいに生後2カ月の乳児を預かるのは彼女にとっても初めてで、とまどいがあったそうですが、よく面倒を見てくれて助かりました。

  この時期を経てつくづく感じたのは、子育ては1人でするものじゃないということ。家族のフォローはとても大事。特に子どもの体調が悪いときはなおさらです。すぐに風邪を引く、おなかを壊す、熱を出す。救急車を呼んだこともありました。本当に病気のときは預けられないし、どうしても会社に行かれない。母親の大変さが身にしみました。

  お客さんとの打ち合わせの日時を事前に決めても、子どもが熱を出したりすると、変更を余儀なくされます。変えてもらった日時に合わせるように、今度は風邪を引いたといって再度スケジュールを変えざるをえないこともよくありました。

  ほどなくして夫は子どもと一緒にスウェーデンに帰国し(会社を辞めたあと、フリーで森林管理の仕事をしていました)、私は5月の長期休暇や8月のお盆のときに追ってあちらへ行き、帰りは子どもと帰ってくる、そんな生活が始まりました。エリックは1年のうち3カ月くらい子どもを見てくれたと思います。

  息子が突如目を腫らしたことがありました。スウェーデンの病院で検査してもらったら「正常」と言われましたが心配でたまらず、すぐに日本へ連れて帰り調べたところ卵と牛乳のアレルギーだと判明しました。アレルギーに関しては日本の病院はきめ細かいところがあるので、胸をなでおろしました。一方、卵や牛乳に目を光らすのは、やはり母親でないとなかなか大変です。

  夫の助けはもちろんありましたが、彼は常に日本にいたわけではなかったので、子どもが3歳になるころまでは過酷な日々が続きました。当時、どういう精神力で仕事と育児をこなしていたのか、今となっては不思議です。 


■びくともしない会社に

 
 エリックは、私の経営スタイルについて「あなたは全部自分でやろうとしている。人材を育てていない」と何度も指摘していました。最初は反論していた私でしたが、粘り強く主張するので「そうだろうか」と徐々に思い始めていました。実際、エリックと知り合う前は一日とて会社を休んだことはなかったのですが、子どもが生まれ、お盆や年末はスウェーデンに行くようになったことで私の生活自体が変化したのです。そのため仕事に対する考え方も変えました。

  「私がいない間、大きい事案だけ報告して。あとは自分で決めて」と、社員に思い切って任せました。「なんでもやる社長」を卒業すべきだと、決めたのです。

  ところが最初はうまくいかず、ガタガタでした。なんと辞めたいと言う人が続出したのです。指示を待つ体質になってしまっていた部分があり、今まで社長に聞けばいいやと思っていたところに、突然自ら考えて行動しなければならなくなった。それを負担に思い、いやがる従業員も、いたのです。

  奔走していた幹部社員に謝り、新たに営業チームの体制をつくり直しました。社内での「見える化」を実現しようと、部品請求から納品までの流れが一目でわかる管理ソフトをつくって導入。社員同士の情報共有に努めました。

  社員たちは少しずつ、私がいなくても、自ら考えて行動するようになっていきました。営業チームは、私より高い売り上げの数字を出し始めました。「私が会社にいなくても大丈夫。びくともしない」と、私も納得しました。社長がいない方が、社員の能力を伸ばせることに遅まきながら気付いたのです。もちろん、ネットがどこでもつながるので、物理的に会社を離れていても、私は社長として変わらず仕事しています。ネットのツールのおかげで会社の状況を把握でき、社員ともコミュニケーションが取れますから。ですが社員一人ひとりの当事者としての責任感は、ずっと強くなりました。

  問題を指摘してくれる人は、ありがたいものです。だれも問題を指摘されてうれしくはないでしょうが、問題の存在は、自分に何かが足りないことのサイン。解決方法を考えるきっかけになるのです。私が機嫌を悪くしても、何度も指摘してくれたエリックは、やはりコミュニケーションの達人でした。 


■心の宝物、サウンド・オブ・ミュージック

 
 スウェーデンと日本を行ったり来たりしながらの子育ては大変でしたが幸せでした。エリックは、趣味と実益を兼ねて、スウェーデンで念願だった森林管理の仕事に就きました。自然との触れ合いがかない、充実した時間を過ごしていました。

  子どもが3歳くらいになって意味もわかってくるころ、エリックから提案がありました。「3人で、ヨーロッパを巡ろう。もっとヨーロッパを英華に見せたいし、知ってほしい」

  5月、欧州8カ国を巡る2週間ほどの「ツアー」へ、エリックの運転で出かけました。フランス、イタリア、ドイツ、オーストリア、隣国デンマーク。足を延ばして、遠くはモロッコまで行きました。

  とりわけ思い出深いのは、オーストリアでしょうか。ミュージカル映画「サウンド・オブ・ミュージック」のDVDを、エリックが準備して持ってきていたのです。「英華はこの映画を絶対、気に入るよ」。そんなふうに言うので、アルプスを訪れる前、ホテルで見ました。

  山の上の修道院にいた女性マリア。普通の修道女と違い、外の世界に好奇心を抱く、明るい女性です。母のいない家庭に教師として採用され、そこの大勢の子どもたちと楽団を編成。お父さんがいないとき大騒動を起こしたりして、どんどん子どもたちに溶け込んでいきます。彼らはマリアが大好き。お父さんも、次第にマリアに引かれていきます。時代はナチスの手に。逃げるため、子どもたちを連れてアルプス山脈を越える――。

  エリックが予想した通り、私は、山の高いところで歌ったり踊ったりする明るくて好奇心たっぷりのマリアが大好きになりました。今では、私の心の宝物です。なかでも「My Favorite Things(私のお気に入り)」が大好きです。何度見てもあきない。マリアたちが越えた、アルプス山脈の場所にも行きました。オーストリアは木造の建物が山にそって建てられていて、その景観ごと美術館さながらで個性的でした。なんて神聖なところだと感激しました。

  子どもは、ドイツだったか、食べ物が合わなくて、ずっとテーブルの下で遊んでいたり、道中は車内でおとなしくビデオを見ていい子だったり。私は、運転するエリックと、心ゆくまで話し、笑い、楽しみました。どこへ行っても素晴らしい思い出ができました。 


■「私には時間がない」


  その旅行から3カ月。エリックは真夏に風邪を引きました。高熱を出した後もせきがとまらず、治りませんでした。お医者さんに診てもらうよう何度もエリックに言いましたが、スウェーデンでは風邪で病院へ行く人なんかいない、と彼は言い張って、しまいには怒ってしまいます。いくら頼んでも、病院へなかなか行こうとしませんでした。

  不安を引きずりながら私は一人で東京へ帰り、忙しい生活に戻りました。エリックが子どもを連れ、次に東京にやってきた11月、私の心配は的中しました。エリックのせきはひどくなっていて、体力もずいぶん落ちていたのです。彼自身、異変を感じ取ったのか、ホームドクターに診てもらっていましたが、そこではレントゲンも撮らず、彼を大きい病院に送ることもしませんでした。

  運命の歯車は、急速に悪い方へ動き出しました。本格的な検査ができないまま12月、クリスマスの準備のため一足先にスウェーデンに帰ったエリックがいよいよ体調不良で、即入院の事態にまでなりました。最初、お医者さんは手術できると思っていたらしいのですが、検査結果が出る前に、私にこちらへ来てほしいと言ってきました。驚いて急きょスウェーデンへ飛んだ私を待っていたのは、「余命3カ月」という信じられない結果でした。肺にがんが広がっていて、既に手の施しようがない、末期の状態でした。

  病院には残酷なところがあります。その時点で、エリックは、ホスピスのような病棟に移動させられました。

  その棟へ移るときに渡った長い廊下を、今でも覚えています。彼は簡易ベッドに乗せられ、指定のパジャマを着ています。男女1人ずつの看護師が付き添っています。私はバッグに彼の服や本、ほかのちょっとした日用品を持って一緒に歩いています。

  明るい廊下なのに、私には暗く、長いトンネルのようでした。生きているのに死を待つ場所に行かねばならない現実。その現実を前にしての人の無力さ、医学の無力さ。最期に及んで私が持っている物の無力さ……。

  エリックみたいにビジネスで成功して、尊敬を集めていた人でも、何も持てずに行ってしまう。年の離れた若い妻と、まだ4歳にもならない子どもを残して。彼はどんな思いで受け止めているのだろう。人の一生ってなんだろう。残されたこの生がどんなに大事か、それをどう悔いなく生き切るのか、エリックから身をもって学びました。

  それでも、妻として、何ができるのか、わからない。助けてあげたいけど、何もできない。これからのことなど、考えられない。息子はまだ本当に小さいし、どうすればいい。 

 エリックは悟っていました。そんなに長くないということを……。病室を出て、廊下で交わした会話は、まだ耳の底に残っています。

  「私には、あなたと子どもを守る時間がもう残されていない。あなたの夫としての役割は、もう果たせない。英華、私たち、すべて持っていたね。豊かな生活しているし、お互いに愛しているし、かわいい子どももいる! でも一つだけ私たちに足りないものがあったね。時間ってやつさ」

  「でも、私は幸せだ。英華は私のそばにいてくれる。子どもを欲しがったあなたのために、子どもを残せたのは、私からの最高のプレゼントだった」

  「ねえ、私の横じゃなくて、真正面に座ってくれないか。英華の顔を見たい。この目に焼き付けて、覚えておきたい」

  入院中、エリックから「何時ごろ病院に来るの?」と何度も電話が来ました。今まであまりそういうことを言わなかったので、なぜそんなに時間を知りたい理由があるのか疑問だったのですが、後になって、看護師さんが教えてくれて氷解しました。

  彼は痛みを抑えるために、モルヒネを打っていたのです。薬が効く時間を考えて、看護師さんと相談して、私に会うときは元気な様子を見せたい、ちゃんとしたい、と言っていたそうです。彼は最後までつらそうな姿を見せず、苦しいとか痛いとかも、一言も言いませんでした。

  私は、彼にまだ3カ月の余命があると信じていました。廊下での会話から、1週間くらいでさようならするとは夢にも思いませんでした。 


■目は見えなくても耳は聞こえる


  家族はどこかつながっているものです。年が明けた2011年1月初旬のこと。朝方、胸騒ぎがしました。苦しくて目が覚めると、じきに息子もぐずりだし「ママ、吐きたい」というので、面倒を見るために起きました。すると午前6時ごろ、電話が鳴りました。病院からでした。「奥さんですか。ウィリアムソンさんは今日、もう越えられないでしょう。すぐ来てください」

  私はその場で、たまらず泣き出しました。不思議なことに、取り乱す私を見ていた息子は冷静でした。「ママ泣かなくていいよ、パパはもうこの家に戻ってこないよ」「戻ってこないなら、パパはどこに行くの?」「パパはお空の、星のところに行くの」

  私はさらに声を上げて泣きました。子どもは現実をよくわかっているものです。私ときたらパニック状態で、頭の中は「理解できない。ほかのものは普通にあるのに、なぜ彼だけいないの」という考えでいっぱいでした。

  その年は、格別に雪の降った冬だったそうです。あまりの雪に、慣れない私は運転できなかったので、エリックの親戚にピックアップに来てもらいました。病院には、女性の牧師さんが既に到着していました。お迎えが来る人がいると、来てくださるのです。

  私たちは、エリックのベッドの脇に座りました。牧師さんはいろいろ語りかけてくれました。彼女は言いました。「人は、最期は目を開けられないけれど、耳は聞こえています。だから、ぜひ声を彼に聞かせてください。彼の好きなお話を」

  私は、ふたりがリムジンバスの中で出会った話を語りました。エリックと私はふたりとも、初めて出会ったときの話がお気に入りで、ふたりだけの内緒にしていました。ふたりの間で、よくその話を持ち出して、笑い合ったものです。

  私が話している間ずっと、エリックはとてもいい顔をしていました。ふたりのとっておきのラブストーリーに包まれて、彼は息を引き取りました。

  私たちはろうそくを立て、賛美歌を歌いました。息子は羊の絵を描き、パパへの最後のプレゼントだといってあげました。子羊は迷えるものですが、エリックは息子の羊に守られ、まっすぐに空へ行けたことでしょう。

  エリック・ウィリアムソン。出会ってたった6年後の、永遠の別れでした。

 ◇     ◇ 

 最後の日々、病院の窓から見えた風景をよく覚えています。人の少ない町並み。家々の赤い屋根に雪が降りつもっています。雪の間からのぞく赤と、雪の白のコントラストが美しいその風景は、エリックを失いつつある私に、「異邦人」だという気持ちを強くさせました。こんな静かな北欧の町にいるアジア人の私。何をしているんだろう。これからどうすればいいのだろう――。私は途方に暮れました。

  エリックは木や森が大好きでした。自宅に観葉植物を置き、かわいがって育てていました。エリックが亡くなると、これらの植物はじき枯れました。私がいくら水をやっても、だめでした。植物たちが、深い悲しみに、その身を終わらせたように私には思えました。


読者からのコメント


昌美さん、50歳代女性
なんという悲劇でしょう! いつも思慮深いご主人様が病院にも行かず、折角来日したにもかかわらず、日本での精密検査も受けずに帰国してしまうなんて。日本の医学でしたら完治していたかも?と思ってしまいます。英華さんと可愛い盛りのお坊っちゃまを残して、本当に残念です!「もっと時間が欲しかった」が、胸に突き刺さります。過去の経験を生かして、これからもお仕事と子育ての両立に頑張ってくださいませ。合掌。

ひみつのあきこさん、60歳代女性
人生とは、残酷。人には、語れないこともあります。馬さんは、本当にすごいです。すみません、このような言い方しかできませんが、馬さんは、しっかり歩いています。これからの人生、大切にしてください。

高畑さん、60歳代男性
出会ってからわずか6年間と短い期間でしたが宝物も授かったし、とても濃密な6年間でしたね!

Mattさん、50歳代男性
エリックさんは運命の出会いの時に55歳、出会って6年後の永遠の別れはあまりに若すぎます。波乱万丈の人生の荒波がここでも押し寄せるとは…  悲しい別れに目頭が熱くなりました。でも短い年月の中でエリックさんと一緒に紡がれた珠玉の宝物の数々には胸が熱くなりました。ご家族での欧州ドライブ旅行、元気な時に実現できて本当に良かった。私もサウンド・オブ・ミュージックのアルプスの風景を思いだしました。素晴らしい結婚、最高の伴侶でしたね。

まつかわさん、60歳代男性
映画サウンドオブミュージック、彼の寝るベッドで語ったラブストーリー、そして賛美歌。涙、涙です。