2016年10月07日
高校時代、「月10元」というわずかなお金で寮生活を送らなければならなかった私は、お金の管理に非常に気を使いました。
あるとき、1カ月でその10元を使い切ってしまったことがありました。ですが、翌月の10元を母からもらうために、なんとしても帰省する必要がありました。帰省しなければならない、でも電車賃すらないすっからかんの状態。そのジレンマに苦しんだあげく、騒動を引き起こしてしまいました。
週末(土日)は授業がありません。寮生たちは金曜日、授業が終わるのとほぼ同時に学校を出て一目散に自宅へ帰るのが常でした。そして自宅でゆっくり過ごして、だいたい日曜日、午後の遅い時間帯に寮に戻ってきます。私は、母から学校生活やお金のことについて文句を言われたり、罵倒されたりするのがいやで、なるべく自宅には長居しないようにしていました。授業が終わる金曜日の午後遅く学校を出て帰省し、翌土曜日早々に家を出て、寮に戻っていました。寮の同じ部屋にいた同級生に「馬さんは孤児なの? 帰省しているところを見たことない」と言われるくらい、私はいつもいつも寮にいました。
■無賃乗車、悪夢が現実に
ある金曜日、月1回の帰省のため学校を出ました。このときはいつもと違う、一つの決心をして、午後3時くらいから駅付近にひそんで電車の様子をうかがっていました。決心というのは実は「無賃乗車」。おとなしい女子高校生だった私としては、悲壮な決意でした。慢性的な飢えと戦うか、ここで無賃乗車のリスクを取るか。私は後者を選びました。
何日も前から悩みに悩み、夜も寝られないほどでした。不正が見つかり車掌につまみ出されて、ほかの乗客から好奇の目がそそがれるなか、車内の真ん中でそれをなじられる。その恐ろしいイメージに苦しみました。こんなことで悩むこと自体、私の精神をひどく疲弊させました。
比較的利用客が多い夕方7時前後の時間帯を見計らって、人混みに紛れて電車に乗りました。心臓がどきどきして、のど元から飛び出そう。周りをちらちら見渡す落ち着きのない私は、不審人物のようだったに違いありません。
当然、電車に乗ったら、車掌が検札のため車内を通ります。それを知っているため、いつ来るか、気が気でありませんでした。各駅止まる鈍行列車なので、降りる駅まで2時間くらい時間があります。車掌に見つからないよう、トイレに忍び込み、やり過ごそうとしました。その間をしのぐのは永遠に感じられました。
無賃乗車ゆえトイレにこもる人はそう少なくないとみえ、車掌はお見通しだったようです。息を潜めていたところ、乗車してからそうたたないうちに見事にドンドンとトイレのドアをたたかれました。ああ、来てしまった!「何している。いつまでいるつもりだ、ここから早く出なさい!」。車掌は大声を出してドアをたたき続けます。やじ馬のがやがやする気配もしました。もう逃げられない。万事休す。私はしおしおとトイレから出ました。
「高校生? いい年しているのに、なぜ切符を買わない。悪いことだとわからないのか」と車掌に厳しく問いただされ、悔しさと恥ずかしさのあまり、涙がこぼれました。20人くらいいたでしょうか、やじ馬が私と車掌を取り囲み、興味津々でやりとりを見つめています。数日前から頭にあった、車掌に見つかって不正をとがめられている、その恐ろしいイメージがまさに目の前で現実として起きてしまいました。
穴があったら入りたいとはこのことです。涙がこぼれたのは、恥ずかしいという以上に、悪いことと知りながら無賃乗車をせざるを得ない自分の状況への、精神的苦痛でした。どこの高校だと聞かれたので、学校名を告げ、学生証も提示しました。電車賃を払うよう、車掌は迫ります。
「切符を買うお金がぜんぜんないんです。ポケットにもなにも入っていません。どうか許してください、もう二度としませんから。」必死に懇願しました。私がいくらお金がないと言っても信じず、車掌は私の手を取って表裏を調べたり、服のポケットに手を突っ込んだりして、“身体検査”を始めました。
「あの、何度も言ってすみませんが、切符を買うお金を持っていないんです。お金がなくて、毎日ほとんど食べていないくらいです。私から何か取らないといけないのなら、もう、着ている服しか差し上げるものはありません。」と私は言いました。車掌は、高校生にもなっている年格好の女性が、お金をまったく持っていないということが解せないふうでした。やじ馬の人々も、不思議そうに私を見ていました。
電車に乗っている間中、厳しい態度を崩さない車掌から運賃を要求される、やじ馬からはじろじろ見られる、その苦痛をこらえ涙ながらにずっと「申し訳ありません、二度としません、許してください」と懇願し続けました。降りる駅に近くなり、私から電車賃がなんとしても徴収できないと知った車掌は、「二度とするんじゃないよ」と言ってしぶしぶ放免してくれました。電車のがたごとという動きと一緒に私の心臓も大きく動揺し、収まりませんでした。下車して家に帰る道々、頭のなかで次々に浮かんだ質問を反すうしていました。無賃乗車なんてやらなければよかった。悪いことだもの、本当にしたくない。でもどうすればよかったんだろう。やらないという選択肢はなかったから。一体私は、こんなことをしてしまうなんて、何のために生きているんだろう――。
■ご飯に落ちた涙
足取り重く、自宅へたどり着いたのは夜も11時近くでした。玄関のドアを開けるなり、母がリラックスした感じで足を組み、なにか甘い物を食べているのが目に入りました。
「どうして帰ってきたの!」
きつい声に、たじろぎました。母は、私が翌月分の生活費を「せびりに」帰ってくるのを知っているので、露骨にいやがったのです。父は仕事で家を空けていましたし、弟や妹は寝ていたのか、その場にはいませんでした。お昼も食べていなかったので、とてもおなかがすいていました。加えて電車での騒動でショック状態にあった私は、その言葉で無力感に打ちのめされ、また涙がこぼれました。
「ここは私の家じゃないの? それと、生活費必要だから。送ってくれれば、帰らなくてもいいの」。これが私の返せる、精いっぱいの答えでした。それまで我慢に我慢を重ねて口答えもできなかったのです。
なにか食べようと思って台所へ行きました。母と1カ月ぶりに会うのですが、彼女が私のために夕飯をととのえるとか温めるとかいうことは、一切ありませんでした。夕飯の残り物のご飯が少しだけありました。お茶わん半分くらいだったでしょうか。一人座って、その冷えきったご飯を食べ始めました。母が追い打ちをかけました。
「学校やめなさいよ。あなたは学校に行くことで、私のお金を使っている。それが許せないの。そのお金、あなたは返さないわけだから。無駄、無駄、すぐに学校やめなさい。中学校のときあなたの同級生だった子たちは、とっくに働いているわよ。月に30元くらい稼いでる。あーあ、うちの生活は大変だ。だから私はいい服なんか着られないよ。勉強いくらしたって、ほかの全員が試験に受かっても、あなただけは受かりっこない。絶対に受からないから、無駄なのよ。」
無賃乗車を責められ恥ずかしい思いをして、それだけでもつらかったのに、家に帰ってまでこんなことを実の母親に言われるとは……。食べていた冷たいご飯のなかに、涙がぽとぽと落ちました。私は限りなく、無力でした。
「絶対受からない」甘い物を食べながら母は続けます。呪文のように。「あなたは落ちるに決まってる。大学なんか受からないから、見ていなさい。」
目の前が真っ暗になりました。どうしてこんなひどいことをお母さんは言うのかしら。私に大学受かってほしくないのかしら。本当に、私は試験に受からない気がしてきました。母には太刀打ちできない――。お茶わんの中のご飯を、涙と一緒に食べました。その味と冷たさを、私は生涯忘れないでしょう。
心でこうつぶやいていました。学校だけは絶対やめたくない。やめて働き始めて、この家に母と一緒にまた住むなんて考えられない。罵倒され続けて、生きていかれるわけがない。満足に食べられず、いつも飢えているのだ。家が貧乏ならまだしも、お金はある。しかもたくさん。一体どういうことなのか。一つだけ確かなのは、母のそばにいたら私は死を選ぶよりほかはない。現実的に考えて、まだ20歳にもいかない娘は、親元離れたらどこに住めるのか。遠いところには行かれない。バイトなんかない。ならば学校しかない。寮という住居はあるし、母の顔を見なくていい利点もある。学校なら生きていかれる。私は、死にたくない――。
■「勝つのは毛沢東か、あなたたちか」
高校2年生の秋ごろだったでしょうか。いつも母にののしられる、時としてたたかれる、針のむしろに座るようなつらい帰省を何回かした後の、ある日曜日。この日も何かでひどい言葉を浴びせられ、生きた心地がしませんでした。忘れもしません。めずらしく家に父がいました。休暇だったのでしょう。「今日はお話があります。」両親にそう切り出しました。
私の改まった口ぶりに、そろってびっくりして「話って何。」床から一段高くなっているオンドルに、二人をかけさせました。私は少し離れたところに立って、二人の目をしっかりとらえました。これを言うことで、私は両親を怒らせ、揚げ句なぐられるだろう。「ここで死ぬかもしれない。」恐ろしさに体がすくみました。足は震え、立っているのがやっとでした。
「お母さんは毎回毎回、私に言うでしょう。私はお母さんのお金を使っているって。私をののしって、学校やめなさいって言うけれど、私は学校をやめない。」 お金のことに文句を言われるのも、学校をやめなさいと言われるのにも、世の中みんなが受かって私だけが試験に失敗すると呪文のように言われるのにも、もう我慢ならない。今まで自分が我慢すれば、それでいいと思っていた。母の仕打ちを父に打ち明けることもできなかった、なぜなら親の離婚で、弟と妹を苦しめたくないから。私は彼らを守らなければならない。我慢の限度を超え無力感に支配されてきた年月を経て、私はついに生死の境目にいる。なんとかして生き延びねば。
今言わないで、どうするの。そう自分を鼓舞しました。一方、極めて冷静でもありました。私には、何年もかけて知恵を絞り、練りに練った、親あてのメッセージが胸にあったからです。
「私は学校をやめない。どうしてもやめなさいというなら、明日は月曜日だから、裁判所は開いています。法廷で会いましょう。」
「毛沢東がいうには、未成年の子供に対して、親は扶養義務と、教育を与える義務があります。あなたたちがその義務を放棄するのなら、明日は月曜日だから、裁判所に行きましょう。」
「毛沢東が勝つのか、あなたたちが勝つのか」
ふだん、ささいなことでののしられ、なぐられていたのだから、こんなことを言ったら、もしかして命がないかもしれない。死ぬ覚悟で面と向かって震えながら言った、その切羽詰まった私の様子に二人は気押されたようです。「この子は……。親に裁判所へ行こうだなんて、聞いたことがない。」そのまま黙り込みました。父も、母も、裁判に行こうとは言いませんでした。いつも無力だった私の芯の強さを感じ取ったのだと思います。
「ああ、たたかれなかった。死ななかった。」ほっとして、その場にへたりこみそうでした。私はいつも通り10元の生活費を手に、電車に乗って学校へ戻りました。
◇ ◇
その後、母はいい顔はしていませんでしたが、以前のように学校をやめなさいと言わなくなりました。
私は自分の力で、学校にとどまり、勉強を続ける権利を勝ち取りました。「裁判所」の提案は、問題を一段落させるのに成功したのです。
これが、少女だった私が自分の身を守ったと実感した、大きな出来事でした。何年もの我慢をふりほどき、「生きたい」という、命の叫びだったのだと思います。弁護士へと向かう、将来の道を決めるきっかけにもなったのです。
読者からのコメント
60歳代男性
月10元だけでの高校の寮生活、それも毎月2時間もかけて貰いに行かねばならない。無賃乗車で車掌に見つかった時の悪いことをした精神的な苦痛は多感な年頃の心中は泣けてきますね。我が家に戻ってのいじめのような母の態度~「冷たいご飯を涙と一緒に食べた事は生涯忘れない」は人生を変える言葉でしょう。
30歳代女性
今回も、グッと息を飲むような内容でした。 読んでいて、もし自分が馬さんの立場だったらと思うと、やるせない気持ちになります。そして世の中には、見えないだけで、こうした体質の家庭がまだまだ沢山あるのかもしれないという事を感じました。裁判所の提案も、素晴らしかったです。
60歳代男性
馬さんのお母さんの仕打ちは、血の繋がった親とは思えないですね。寮の他の学生から、孤児ではないの?と聞かれたのももっともです。それにしても、お母さんに言われっぱなしで反論出来なかったというのも悲しいことですね。法廷闘争に訴えたのは、正解だったかもしれないですね。