「自分の人生決められないの?」で母になる

MEDIA

「自分の人生決められないの?」で母になる

2017年02月03日

メイン画像


 空港と都心を結ぶリムジンバスで偶然に出会ったスウェーデン人のエリック。付き合い始めるのに長くはかかりませんでした。

  ここでエリックのことをもう少し詳しく紹介しましょう。彼はスウェーデン南東部のカルマルという、バルト海に面した人口6万人ほどの港町で生まれ育ちました。スモーランド地方の中心となる町で、中世から続く古い歴史を持ったところです。

  父親は大きな会社の幹部、母親は専業主婦という両親と弟との4人家族です。本人いわく、学校での勉強は中ぐらいの成績であまり得意ではなかった半面、ビジネスには早い段階から興味があったそうです。幼少時からの友人の評によると、夫はコミュニケーション能力が非常に高かったそうで、その能力を発揮したのでしょう。18歳の時に知人に誘われ地元企業に入社し、その後20代半ばにして社長になります。

  30代でヘッドハントされ、ムンタースに転職。ストックホルムに本社がある上場企業で、当時1万2000人ほどの規模でした。その後、同社で順調に出世していったようです。私と出会ったころは副社長で、アジア地区の総責任者というマネジメントのポジションを得ていました。病没した前妻との間に、成人した2人の子どもがいます。

  太っているというわけではないのですがかっぷくがよく、穏やかな性格。年齢差もあるので、一緒にいると私が小さな娘みたいに感じてくるのです。彼は実際、私のことを時々「小さい娘さん」と呼んでいました。社長や弁護士の仕事に忙しい私にとっては癒やされる「くまのプーさん」のような存在でした。 


■女性にとっての「経営判断」


  エリックとは、2人の間の問題はもちろん、2人とも会社経営に携わっていたので、経営上の難題についてよく話し合っていました。

  そのころ私は会社経営と負けず劣らず重要な、大きな「経営判断」を下す必要に迫られていました。女性なら遅かれ早かれ直面するはずです。ことに働く女性には。そう、子どもを持つか持たないかの決断です。

  幼いころから数十年間、将来子どもを持つかどうかは、私を深く悩ませてきました。自分が生んだ子どもに十分に愛情を与えるどころか、ほぼ養育を放棄し、ののしるばかりだった私の母親を考えると、自分がそうなったらどうしようと不安で仕方がなかったのです。もし私が母親そっくりになったら、それこそ罪つくりです。一方、母になるかならないかは一生のことです。私は母になってみたかった。タイムリミットも近づいていました。

  エリックに会う3カ月前、39歳の誕生日を迎えていた私は、営業用の重いかばんを抱えながら毎日ずっと、そのことを考えていました。相手あってのことですから、一人ではクリアできません。それが「すてきな人に出会いたい」という、例の願掛けにもなったわけです。

  私には、仕事も家族も必要。会社経営をしながら子どもを持つのは、簡単にはできません。それだけ重みのある選択だったのです。「決めた。私は母親になる。子どもが欲しい」。そんな心境になっていたときに、エリックと出会ったのです。

  付き合いだして2カ月。目標を立てたら達成せずには気の済まない私は、面と向かって、エリックに告げました。何十年も考えた末の決断ゆえ、きっぱりと単刀直入に。

  「私は子どもが欲しい。協力してほしい」

  彼の緑の瞳が、驚いて大きくなりました。

  「うーむ。ちょっと、待って。私ももう55だし……。子どもを持つって大きなことなんだよ。1週間、考える時間をくれないか。私の子どもに連絡させてほしい。彼らに聞いてみないと」

  おいそれと待つわけにいきませんでした。人生とキャリアがかかっているのです。直感でしたが、彼の子どもたちはノーと言うに決まっています。

  「ウィリアムソンさん。あなたの子どもは、私のことを全然知らない。ならば賛成などするはずない。あなたしか、私の良さはわからないのよ。あなたは会社で、1万2000人という大勢の従業員を率いているリーダーよね? 自分自身のリーダーではないのですか。自分の人生を、自分で決められないの?」

  私も彼も、短期間に、お互いの性格を既に見抜いていました。エリックは、目標を決めたらどんなに困難でも実現するために挑戦せずにはいられない馬英華を。一方私は、20年以上も副社長として経営に携わり、自らの意思決定に絶対の自信を持つエリック・ウィリアムソンを。

  エリックは私を見つめ、毅然として「とんでもない。自分のことは自分で決められる」と断言しました。「わかった。子どもたちには、意見を聞かないことにする」

  1週間か2週間して、ひどく真剣な面持ちのエリックが「そこに座って。例の話、私の答えを伝えよう」と切り出しました。「答えは、イエス」。もちろん授かるかどうかは天にしかわかりませんが……。 


■スウェーデンに帰ってしまった


 エリックと私が大きな決断をしたすぐ後、彼に人事異動の指令が出ました。なんと本国へ帰国せよというものでした。私は驚きましたが、エリックは私に会う前に既に心を決め、準備していたのです。

  20年の長きにわたり日本に住んでいたものの、ふるさとに帰りたいとひしひしと思うようになり、帰国を希望すると申告していたそうです。仕事の引き継ぎや後任人事など、多くの調整ごとをさんざんした後で、彼には日本に住み続けるという選択肢はありませんでした――私という思いもよらない存在は想定外になりましたが。

  私は東京を離れられない。会社はまだ私を必要としている。「結果の出ない愛なのかもしれない」。そんな考えが頭をよぎりましたが、私にはキャリアウーマンとして一人でやっていく自信もありました。そういう私をエリックは尊重してくれました。出会ってたったの4カ月後の5月、彼はスウェーデンに帰ってしまいました。早すぎる遠距離恋愛の始まりでした。

  旅行に行く時間など捻出できないと思っていましたが、その年の夏、私はお盆休みを利用して初めて彼の母国を訪れました。彼も日本に会いに来てくれたりして、お互いに時間をつくる努力をしていました。

  遠距離の必須コミュニケーションツールとして、スカイプでやりとりしていました。ある日、エリックがコールしてきました。なんと会社を辞める決意を固めたと言います。「ちょっと待って! なぜ? あなたの今の年俸と同じレベルの待遇をしてくれる会社はほかにない。私のためにキャリアを捨てるのは反対です。頭をクールにして考え直して。急ぐ必要はない、今後のこともあるし、今辞めることはないと思う」と思いとどまるよう、訴えました。でも彼の心は決まっていました。

  「18のときから、旅につぐ旅で飛行機ばかり乗ってきた。会社の都合で、ずいぶん人をリストラしてきた。心を鉄のように固く保って、ずっとやってきたんだ。そんなことより、私は木や森が大好きなんだ。これから自分の時間を持ちたい。私は一時的に決断したのではないよ。これ以上お金をもらっても、私の生活に影響はない。後悔のないよう、心の声に従って辞める」

  そう言った翌日、本当に会社を辞めてしまいました。後から考えれば、これは彼の英断でした。2006年2月のことでした。

  ほどなくして、エリックからイタリアのトスカーナ地方で休暇を過ごさないかと誘われました。忙しかったしトスカーナがどこなのかよくわからず渋りましたが、説得されて決めました。サプライズで、実はイタリア行きのチケットを既に買ってくれていたのです!

  訪れたのはトスカーナ地方とサンマリノ。滞在したがけの上の小さな町では、素晴らしい見晴らしを楽しみました。夢のように美しいぶどう畑、眼下に広がる田園風景はこの世のものとは思えませんでした。ホテルでは、朝日の差すカフェテリアが光り輝いているように見えました。そこにエリックがいる。この人といて幸せだと心から思いました。

  そして旅行から帰った私は、新しい命を授かったとわかりました。 


■私の専属ドライバー兼顧問


  東京での私は相変わらず忙しく、身重の体になったにもかかわらず、弁護士と経営者と二足のわらじを履いて働き続けていました。エリックはというと、スウェーデンの自宅と、東京の私の家とを往復する生活でした。

  日本にいる間は、彼は喜んで私を駅まで車で送り迎えしてくれました。その間の1時間は、私と彼との貴重なコミュニケーションの時間でした。

  彼は、私の多忙さについて、疑問を呈していました。起業してから8年目に入り、ようやく軌道に乗ってきた東京エレベーターでしたが、私はまだプレーイングマネジャーでした。いわば一匹おおかみの状態で、人に任せるより自分でやっていた方がよいという考えで、会社のあらゆるところが心配。多少病気になっても、はってでも会社に行かないとだめだと思っていました。

  運転しながらあるときエリックが言いました。「あなたは全部自分でやろうとしている。社長として会社の成長を止めている。人材を育てていない。これではリスクが大きい」

  私はまさに働きづめでした。中小企業の社長は概して信念が強く、意欲も高く能力もある人が多い。それゆえ自分ですべてやってしまう。いつでも何でも会社のことを知っていたい、コントロールしていたい、それゆえ短い旅行にも出かけられないという仲間に、私はたくさん会ってきました。いわゆるマイクロマネジメントに陥りがちです。今でこそ違いますが、私もそのうちの一人でした。妊娠によって体調がひどく悪くなっても、過労で倒れても、出産のため入院するまでは一日も休まず出社したくらいです。

  エリックはそんな私を、よく分析していました。「私も昔はそうだった」。信号待ちでも続けます。「20代のとき、英華と同じように社長になって、経営を任されたから。何でも自分でやっていたけど、だんだん疲れてしまって、営業の数字が出なくなった」

  「人間だからね。あなたが風邪ひいたら会社も風邪ひいてしまう。会社にも迷惑だろう。社長のあなたの仕事は、体を休めて新しいアイデアを出すこと。そして数字をよく見て目標を決め、きちんと確認していけばいい」

  私は顔を赤くして「私はオーナー社長で、あなたは大企業の副社長。立場が違うし、任せられる社員もいないの。私が東京エレベーターをここまでにするのに、どんなに努力したか、知っているの? 子どもよりかわいいくらい」と反論しました。彼は彼特有の辛抱強さを見せ、怒ることなく「あなたの気持ちはよくわかる」と受け止めてくれました。すると私の気持ちも和らぎ、素直に彼の主張を考えるようになったのです。

  こんなふうにエリックと経営に関して、何度話をしたことでしょう。彼は落ち着いた話し方で、持論を粘り強く主張し続けることで、私の、働き方に対する考えをだんだん変えていきました。 


■「あなたを支えるのはすごい価値」


  エリックが私の専属ドライバーとして送り迎えしてくれるのはうれしいのですが、半面、申し訳なくもあり、良心の呵責(かしゃく)を感じていたのも事実でした。まだまだ働ける年なのに、私のためにドライバーに徹して、自分の能力をフルに生かしていないのではないかと、あるとき聞いたのです。今でも彼の言ったことが忘れられません。

  「英華、私の小さい娘さん。あなたは自分の価値がわかっていない。あなたのように経験を積んで、苦労して、道を外すことなく人のために尽くそうとしている女性を見たことがない。生き生きして頑張っているあなたのような人は、世の中にそうはいない」

  「私は会社に勤めていたけど、私の会社じゃない。あなたは、一から、会社を、自らの血と汗でつくり上げた。男以上の精神力、能力がなければ会社の経営などやっていかれない。本当に尊敬している。このような女性を支えることは、私にとても合っているし、あなたは、こうされることに値する(You deserve this)。価値ある人を支えることは、とても価値がある。私の送り迎えで英華のやりがいが高まるなら、いいことだろう?」 

 「あなたには会社があり、社員の面倒も見ている。既に本を出版しているし、人々はそこから学べる。私は無名だが、あなたは違う。あなたの価値は、非常に大きいのだ」

  なんていう人と巡り合ったのだろう。私を深く理解してくれている安心感、そして感謝の念に、涙がこぼれそうでした。この言葉がどれほど励みになったか、救われたか、私にはうまく表現できません。

  思い返せば、私は人から理解されない場面が多くありました。ゆえに孤独を感じることが多かったのです。

  母親は、物心ついたときから私へ理解を示しませんでした。小学生のころは家事の山をこなすために同級生と遊べず、いじめを受けました。彼女たちは、一緒に遊ばない私を理解できなかったのです。大学院生のとき奨学金の資格を得たことで、仲間の中国人留学生たちから仲間はずれにされました。「お金をもらっているのだから、私たちと違う」という理由だったようです。

  経営者になっても、中国人だから、女性だからと、社内外であつれきに直面し、一人で判断を迫られることがたくさんありました。そんななか、私を深く理解して、私の価値を見いだしてくれる人に出会えるとは、本当に奇跡としか言いようがありません。

  2007年1月、私たちの赤ちゃんが生まれました。4200グラムもあるジャイアントベビーで、産院の人たちに驚かれました。この瞬間、私の持つ弁護士と経営者の肩書に、今度は「母」が加わったのです。 


■恩人のお医者さん


  子どもを持つと決断したとはいえ、エリックはしばらく心が揺れていたそうです。後になって彼からこんな話を聞きました。

  勤務していた会社と契約していたお医者さんがいました。長年、エリックのかかりつけ医を務めていた人物で、もう何十年も付き合いがあったそうです。健康関連だけではなく、プライベートの悩み事も相談していたくらい、エリックは先生を信頼していました。

  私たちが知り合って1年くらいたったとき、そのお医者さんに「私はアジアの女性に恋してしまった」と打ち明けたそうです。「その女性が、私の子どもを産みたいと言う。どうしたものだろうか。先生ならどうしますか」

  お医者さんは「その女性の写真をお持ちですか」と聞いたので、エリックは持っていた私の写真を見せ、私について話したそうです。まじまじと写真を見た後、先生は彼に鏡を渡しました。「顔を見てみなさい」自分の顔をのぞいたエリックはたじろぎ「ああ、私も年を取りました。50代の男の顔です」先生がおっしゃったのは――。

  「ご自身でもおわかりのようですね。写真の女性はあなたにはもったいない(笑)。きれいで若くて、とても知的な女性じゃないか。考えてもご覧なさい。15も年下の、このような女性があなたの子どもを欲しいと言っているなんて、ふつうありえないことですよ。あなたは世界で一番幸せな男です。ぜひ、お子さんを持ちなさい。私だったら絶対イエスと言う」

  信頼している先生がこんなふうに言ったので、太鼓判を押されたようで、50代も半ばになり、再び父親になることに前向きになったそうです。

  私は先生のお名前をうかがうこともなく、ついにお会いすることはありませんでしたが、子どもを持つことをかなえてくれた恩人の一人だと感謝しています。


読者からのコメント


昌美さん、50歳代女性
「小さな娘さん」の馬英華さんのブログを毎回楽しみにしております。今回は、くまのプーさんのエリックさんとの私生活から、ご両人の性格を垣間見させて頂きました。映画のようなお二人の出会いから出産まで、なんて順風満帆なのでしょう! エリックさんは素晴らしい人格者であります。どこの世界も人材が欲しいのですね。仕事一筋に一心不乱に生きて来た女性は、やはり40歳を前にして出産のことでかなり悩みます。私もそうでした。しかし、馬さんの場合、それもご自分の考えで見事クリアされ、正に「自分の人生」でございます。これからも社長として妻として母としての両立を、心からお祈り致します。次回はもっと楽しみにしております。

ノンノンさん、60歳代女性
英華さんのブログ、いつも感動です。 ますます好きになります。

堺谷光孝さん、60歳代男性
素晴らしい理解者を得て、母になることができてハッピーでしたね。馬さんを一人の女性として愛するだけでなく、50代の若さで副社長という地位を持つ会社を辞め、馬さんを支えるために時間を作って、ドライバーまで務めてくれるなんて、日本の男性にはとてもできない離れ業です。さすが、レディーファーストを実践する国柄でしょう。人生を共に歩む伴侶を得て、母になることを実現させた馬さんの意思の力に敬服します。今回のブログは、しみじみとした穏やかさと馬さんの心のときめきが感じられて、心から感動しました。

50歳代女性
素敵なご主人様との馴れ初め、女性として、経営者としての決断、いつも涙があふれます。 息子さんの「二分の一」成人式、かわいかったよ。

60歳代男性
ますますおもしろくなりましたね。前回の話でエリックさんがバスであなたの隣に座った気持ちが良くわかりました。素敵な夫さんですね。

秘密のあきこさん、60歳代女性
最高の出会い、まさに神様からのプレゼントですね。素敵な理解者とベビ-にも恵まれ、今までの苦労の賜物でしょう。毎回わくわくしながら拝見させていただいてます。これからも健康に気をつけてご活躍ください。

60歳代男性
偶然の出会いから素敵な恋の物語に発展してゆきましたね。イタリア旅行は「ローマの休日」を思い出しました。ハーモニーが合って、よいメロデイに仕上がりましたね。