狂うも救うも同じ人間 遺産と大震災で見えた心

MEDIA

狂うも救うも同じ人間 遺産と大震災で見えた心

2017年03月03日

メイン画像


 2011年は次々と大きな出来事に見舞われる年でした。夫エリックを1月初旬に失い、ぼうぜんとしているなか、お葬式や後片付けを終わらせ、2月にやっと日本に帰国した私を襲ったのは東日本大震災でした。

  あの日を体験した人たちはみなさん記憶がおありでしょう。私に起こったことは後でお話しするとして、まずは夫亡き後、私を悩ませた、思いもよらなかった悲しい出来事をお伝えしないわけにいきません。

  4月に再度スウェーデンに戻りました。ある問題が持ち上がったからです。なんと、エリックと前妻との間の子どもたちと一緒に了承し、署名した遺言を、彼らが破ったのです。 


■「あなたとは、もう会わない」


  発端は、生命保険会社からの照会でした。エリックの2人の子どもたちに、保険会社から「振り込みをしたいので口座番号を知らせてください」と連絡が行ったのです。

  実はこの月々の支払いは、エリックが、私と私たちの息子の生活費のためにアレンジしたものでした。夫は生前、残される私と息子を心配して、遺言作成する際に、担当弁護士と私を数度会わせたほどでした。もちろん、前妻との子どもたちにも不自由をさせないよう、十二分の資産を譲ると決めていました。多くの資産を持っていた彼は何より、遺産を巡って家族が争うことを避けたいと願ったのです。

  最終的に、エリックの弁護士を前にして、遺言の中身を相続人すべてが条項を一文ずつ読み上げ確認し、それぞれ署名しました。同意ができたので私は安心していたのです。当のエリックこそ安堵したに違いありません。

  この弁護士は長年エリックと付き合いがあり、私よりも、エリックの大きな子どもたちの側に立って親身になって助言していたようです。真意はわかりませんが、この弁護士は、相続人として私と息子へ支払われるはずだった詳細を、保険会社に知らせなかったのです。その結果、保険会社は、私ではなく、大きな子どもたちが相続すると認識して照会したというわけです。

  何が起きているのか確かめるためにも、私はスウェーデンに行かねばなりませんでした。大震災の翌月、気が休まる暇もなく、私は同国へ戻りました。

  大きな子どもたちに電話をかけました。「生命保険の支払いについて、会って話がしたい」と伝えると彼は声を上げました。「あなたとは金輪際会いたくない。あなたは日本で会社経営して、成功しているんだから生活には困らないはず。父からのお金など、必要ないでしょう」と感情的になってののしるではありませんか。驚きのあまり、顔から血が引く思いでした。手のひらを返したような仕打ちとはまさにこのことです。

  その後、もう一人の子どもへも電話しましたが、私にはエリックの遺産は必要ないと口をそろえるのです。その後は、2人とも電話に出ることはありませんでした。私と接触を断ち、無視を決め込んだのです。担当弁護士にも相談しましたが、この時点で、彼は既に大きな子どもたちの味方でした。やがて、私に会ってくれなくなりました。

  一言でいうと、エリックの大きな子どもたちは、保険会社からの支払いが十分に魅力的だと思いがけず知って、私に渡したくなくなったのです。私は、連絡不行き届きを放置した担当弁護士に対して、同じ弁護士として、故人の遺志を執行しないやり方が到底理解できませんでした。

  許せなかった。私の息子と大きな子どもたちは、血を分けたきょうだいです。4歳にもならないのに父を失った私の息子の境遇に、大きな子どもたちは助けてくれるどころか、逆にお金に目がくらみ、縁を切ったのです。たいへんなショックでした。金額の問題ではなく、彼らの心変わりが。 


■お金の問題でふたたび苦しむ


  お金は人を狂わせる――。私は、お金に執着する、人の強欲をふたたび目撃したのです。

  以前もお話ししたように、母がお金に対して持っていた執着心が、私を長く苦しめてきました。子どもよりお金を愛する、守銭奴「グランデ」だった母。高校時代、私が寮で使うせっけんや洗面器など細々とした日用品にまで値段を記録して「返せ」と迫った母。食費さえ出してくれず、食べ盛りの私はいつも飢えていた。小銭もなく無賃乗車して車掌に見つかったときの、いてもたってもいられない恥ずかしい思い。私が日本へ行く飛行機代を払いたくないばかりに、お金を隠して家出した母。家が貧しかったなら納得がいったのに、とても裕福だった。この矛盾に、10代だった私の幼い心は引き裂かれました。

  人の心を簡単にゆがめるお金の魔力とは何だろう。子どものころに母からさんざん味わわされた無力感が、30年たったというのに、よみがえりました。弁護士でありながら争いを目前に、何もできない。そのもどかしさが無力感に拍車をかけました。当時はスウェーデン語を一言も理解できなかったのです。

  封建的、閉鎖的と思える考え方が渦巻く北欧の小さな町で一人、孤立無援の状態でした。だれに助けを求めたらいいのかわからず、その後のトラブル処理は、私の精神を激しく消耗させました。

  当時を思い出すと、まるで自分が演じる映画を他人事のように観客になって見ている気がします。自分の身の上に次々と起きた一つひとつの出来事の衝撃が大きく、受け止められなかったのです。当事者になることを認めたくない自分がいました。その自分が冷静に、エリックとの別れや相続トラブルから生まれた痛み、無力感、理不尽さに翻弄される別の自分を、映画の中の主人公として眺めていたのでしょう。そうすることで私は精神のバランスを取っていたのかもしれません。

  生きるということはこんなにもつらく、悲しいものなのか。お金を巡るいさかいに気が休まらず、そのときは毎日2~3時間しか眠ることができませんでした。何が私をスウェーデンに運んでまでこういう目に遭わせるのか。心をえぐるような別れや、争いごとは、いったいどういう意味を持つのか。来る日も来る日も、考えざるをえませんでした。つらい、人生のレッスンでした。 


■息子と会社の存在に救われる


  地元を離れ、ストックホルムで活躍する別の弁護士に助けを求めたところ、判例など調査してくれました。すると、もし私が裁判を起こせば、遺言もありますし法定相続人ですから、勝てるのは明らかだと言ってもらえました。

  ですが、よく考えた末に、この問題は片付かないと悟り、訴えることをやめました。それまでにも多額の手数料がかかっていたのは事実でしたが、ほかに理由があります。まず、遺産は少なくともエリックの子どもたちに入るし、万一彼らが非常に貧しくて、お金を必要としていたら、私はこういう状況でなくても、経済的援助をしたでしょう。

  それと、異文化との葛藤です。異国で外国人が後ろ盾もなく戦うことは、非常なパワーを要します。そこまでのパワーは、私にはなかった。法律家といっても、法律は文化に深く根ざすものです。この地で勝利を追求するのは難しいでしょう。住人は何世紀にもわたりコミュニティーを築いており、何代も前からみな顔見知りという、6万人の小さな町です。ふだん住んでもいない、ここの文化も知らないアジア人の私は、どこまでもよそ者でした。一人で文化は覆せません。限界がありました。

  法律とは何だろう、人を守るものではないのかと、沈思しました。お金に狂ってしまった人たちと戦って、何が残るのか。悔いは残したくありませんでした。

  もっと心配なのは、争いに時間と精力をそそぎ続ければ、そこから生まれるマイナスのエネルギーで、息子に悪い影響を与えてしまいます。お金を巡る争いで、そんな「負の遺産」を彼に与える価値があるのかというと大いに疑問です。小さいのにパパを亡くして、きょうだいから絶縁された彼こそ、私以外、守れる人はいない。なんとしてもこの子を守らなくてはいけません。その決意は、私を奮い立たせました。

  そして、私には東京エレベーターという会社があることです。素晴らしい社員たちがいる。私を必要としている人や仕事が、東京で私を待っている。仕事を通して社員の成長を助け、よい生活を送ってもらいたい。その使命感が、お金のトラブルのただ中にいた私にとって、どんな救いになったことか。

  スウェーデンにいたときは、一刻も早くオフィスに戻りたくてしかたがありませんでした。私にとって、何よりも大切な場所でした。経済的な支えというよりは、心の支えとしての仕事と社員を育んでいる場所。会社は、ある意味、私の恩人と言えます。「そこにいてくれて、ありがとう」感謝しかありません。 


■息子に一晩付き添った先生方


  3月11日。東日本大震災の日は、多くの人の記憶にまだ生々しく残っていることでしょう。

  最初の揺れが来たとき、私は東京の社内で打ち合わせしていました(2016年3月10日公開のブログに当時の様子を詳しく書きましたので、よければお読みください)。エレベーター保守契約をしている顧客からの問い合わせが怒とうのように入ったため、社員が一丸になって必死に対応しました。けが人もなく、閉じ込めも起こらなかったのは本当に幸いでした。復旧に駆け回った社員たちを誇りに思います。

  夕方になって、保育園に預けた息子のことが心配で早く帰宅したかったのですが、電車は一部しか運行していませんでした。日本橋のオフィスから、利用していたJR品川駅まで復旧していた電車に乗って行き、そこから、家を目指して歩き始めました。21時前後だったか、道はどこも徒歩で帰宅しようとする人たちでとても混んでいました。タクシーはまるで動いておらず、選択肢はありませんでした。気持ちばかり焦るのですが、まったく速く歩けません。

  重いかばんとハイヒールの靴には苦しめられました。靴の内側でこすれた足先の箇所が痛み始め、水ぶくれになっていくのがわかりました。保育園からは既に、近くの小学校に息子ともども避難していると連絡があったので、少なくともだれかが付いていると安心し、ひたすら歩き続けました。

  7時間ほど歩いたでしょうか。道中、まっすぐ立っていられないほど強い余震に何度か遭い、ふらふらしながら歩き続けました。ありがたいことに夜通し開店しているレストランがあり、人々がトイレを借りたり、水の補給をしたりしていました。

  避難先の小学校へ足を引きずりつつたどり着いたときは、既に時計の針は深夜を回り、3月12日未明になっていました。足が猛烈に痛み、疲労はピークに達していました。息子は寝ていました。先生方によると、寝小便をしてしまったそうです。

  感謝したいのは、息子を一晩中見守ってくれた人々がいたことです。一人だけ取り残され、私の到着を待ちわびる息子に寄り添い、その小学校の校長先生と先生方、保育園から付き添ってくれた先生と保育士さん、合わせて4~5人が一緒にいてくれました。先生方だって、家族が待つ家に帰りたかったはず。でも不安がる息子に付いていてくださったのです。心からありがたく、お礼は言葉に尽くせません。 


■「生きててくれて、よかった」


  足の痛みでもう一歩も歩けなかった私を自転車の後部座席に座らせ、うとうとする息子を前に乗せて、先生の一人が自転車を押して、自宅まで送ってくれました。やっとの思いで帰宅した私はそのまま倒れ込んで横になり、眠ってしまいました。

  ひとしきり寝た後、息子の気配を感じて目を開けました。息がかかるくらい、彼は私の顔に近づき、私を凝視していました。どうやら、ずっと私の顔を眺めていたようです。泣いてはいませんでした。

  「ママ生きているの?」

  それが息子の第一声でした。

  「ママ、お友達はみんな帰って、僕しかいなかったから、ママは死んだと思った。レストランの中で、地震で死んだと思った」

  「パパは死んじゃったから、ママも死んじゃったと思ったよ。生きててくれて、よかった」

  胸が締め付けられました。父の死を4歳なりに受け止めていたところに、この地震の恐怖を一人で味わったのです。子どもにとって、親である私の存在は、なんと大きいのだろう。子どものために生きなければと、強く思った瞬間でした。後で息子に聞いたら、私が生きているかどうか、私の顔にぴたぴたと手を当てて、確かめていたそうです。子どもとは、こんなにいとしいものなのですね。

  後の報道で見ました。困ったときはお互いさまと、コンビニに残るおにぎりを奪うことなく、お互いを気遣かい励まし合った被害者、その人たちを助けようとしたたくさんの人々のことを。先生方の無私の行動といい、日本の人たちのモラルの高さに感銘を受けました。こここそ、私の生きていく場所だと改めて決心しました。人の心の美しさを、未曽有の天災の中でしっかりと胸に刻みました。

 ◇     ◇

  遺産を巡るトラブルは収束するまで1年以上かかりました。エリックは私と息子を心配していましたが、同じくらい、別の意味で大きな子どもたちを心配していました。というのは、お金を残せば、彼らは働かなくなってしまうと予感していたからです。

  残念ながらエリックの心配は的中したようです。大きな子どもたちとは以来、交流がなくなりましたが、2人とも仕事を辞めてしまったと風の便りに聞きました。

  最愛の人との死別、大地震の怖さと家族の温かさ、人の限りない優しさ。お金に狂う、人のさもしさ――。短期間でたくさんの人生経験をしました。

  どんな人も、その時、その場所によって、人を救ったり、苦しめたりする。どちらも同じ、人の心から生まれるもの。生きているからこその心の動きです。

  人の命は幻のよう。死にのぞんでは何も持って行けない。エリックが教えてくれました。だからこそ、何のために生きているのか、どういう生き方をするのか、ひとさまにどれくらい、お役に立てるのか問うていきたい。あきらめず、この生を前向きに生きたい。夢を持ち、人のために働く、そのために生かされていると思うのです。


読者からのコメント


とだ-kさん、70歳代以上男性
ブログの初回から保存して読んでいます。自己本位のあまりにひどいお母さん、実母が実の子にこのように扱うのか、こんな女性がいるのだと怒りを感じます。いくつかの裏切りに耐えてきて、夫の先妻のこどもの仕打ち、味方のはずの弁護士も相手側に立った怒り……。わたしならはらわたが煮えくり返って死んでしまいます。それでも生き続けてきた原動力は何でしょうか。打ちのめされて、打ちのめされて、しかもブログに生きざまをさらけ出している。名著『夜と霧』の著者、アウシュビッツに送られる明日のない人々と一緒にいてなおかつ生き長らえたユダヤ人フランクルは家族や人のために何をするか、何ができるかを考え続けることが生きる原動力になるといいました。また、人は味方になってくれる人、支援してくれる人がいてこそ生きていられるといいます。馬英華さんはなぜ生きていられるとお思いでしょうか。

昌美さん、50歳代女性
いつも楽しみにしております。義理のお子様達との遺産トラブルは、ご主人様との別離間もない馬さんにとっては、とてもショックな出来事でしたね。「お金は魔物」、人を豹変させてしまいます。悔しかったでしょうが最後まで争わなくて良かったと思います。後足で砂を掛けられるような思いはしましたが、一方、東日本大震災では、大事なお坊っちゃまと馬さんが助かったのですから、これ以上のよろこびはないでしょう! 度重なる経験を、これからの人生の肥やしにされて、お幸せとご活躍を心からお祈りしております。

40歳代女性
いつも大変楽しみに読んでおります。NHKの朝のドラマよりずっといいです。特にお母様との確執には胸を打たれました。最近は毒親というらしいですが、実の親の理不尽な振る舞いに大人になっても苦しんでいる人はたくさんいます。ラブストーリーも素敵です。有能な女性も婚活に励むというところに親近感がわきます。そしてシングルマザーの苦悩も。本当に馬さんのブログには女性の全てが凝縮しているようです。

高橋 政己さん、60歳代男性
心打たれると同時に、自分の心にも当てはまるところがあり、気持ちを新たにさせられました。今後益々のご発展をご祈念申し上げます。

松川さん、60歳代男性
伴侶の死や自然災害、大変な日々でしたね。こんな悲惨な状況のなかでも大きな力を与えてくれたのが人の温かさ、優しさだったなんて嬉しいですね。

60歳代男性
2011年は壮絶な年になりましたね。人間の強欲さは、どの国も同じできっぱりと放棄した決断には自分の経営する「会社愛」があったからでしょうか。大震災で日本人のとった行動とモラルの高さは世界の人の心を変えたはずです。