2016年09月09日
そこは一面のトウモロコシ畑です。忘れもしない、15歳の夏。7月の半ばの、時刻は午後5時を過ぎたころでしょうか。夏の太陽が夕日に変わる時分です。
時間は迫っています。そろそろ暗くなるでしょう。「今だ。今こそ死に時だ」
目の前は沼。小さなダムによって造られた沼は、ぐちゃぐちゃの泥で満たされていました。
――おばあちゃんが言ってたな。ここは気を付けなさいって。昔、若い男の人がはまっちゃったけど、そのあと、体が上がらなかったって――
トウモロコシ畑はこの上ない迷路のようで、周りには人っ子一人いません。沼は、不気味な姿を見せて静かに横たわっています。
私は立ち上がりました。畑にふせって泣いていたから、体は泥だらけでした。息を吸い、一歩踏み出しました。
◇ ◇
その日、高校受験に落ちた私は母からさんざん責められ、同級生たちからは笑われて、行き場を失いました。右も左も居場所のなくなった私は、天に行くしかないと思いました。
家を出て向かった先は、ダムのある場所。ダムによってせき止められた泥沼があり、大きな川が流れていました。沼の周りをトウモロコシ畑が取り囲み、普段は人が近づかない一帯でした。
トウモロコシ畑のそばには父方の祖母が住んでいました。祖母の家を行き来していたことから、この場所を知っていたのです。危ないから近寄ってはいけない、と祖母によく言われていました。人けのないところで泥沼にはまるともう助からないよと脅されたものです。
沼底は柔らかくて中に一歩でも入ると、泥に吸い込まれる。大人でもはまってしまうと、もうはい上がれないといわれていました。深さがどれほどあるのか、誰もわかりません。トウモロコシ畑やほかの野草が深く茂っているので視界もきかないし、沼に入ると死体も見つからないと知っていた私は、そこが、死ねる絶好の場所だと思ったのです。
■神の声が聞こえた
青空の抜けるような晴れの日でした。11時ころでしょうか、トウモロコシ畑へ歩いて行って、中に入り込みました。まっすぐ上に伸びるトウモロコシをぬってずんずん進み、だれも分け入ることのできないところまで入り、そこで突っ伏して泣きました。泣いて泣いて、泣き続けました。
青々としたトウモロコシ畑は、収穫直前の実がはちきれそうに成長し、生命を謳歌していました。地面には、時折ヘビが顔を出してちょろちょろ動いていました。
いったいどのくらい時間がたったでしょうか。夕日が出てくる時間帯でした。もうそろそろ時間だなと思ったのです。夜のとばりが下りるまではここにいたくありませんでした。自分の命はここで終わりにしよう。地面から、ゆっくり立ち上がりました。沼は目の前です。
一歩踏み出そうとした瞬間です。今も覚えていますが、一瞬、声が聞こえました。
「待て! 待て!」
確かに、その声は私の耳元で言いました。女性の声です。
待て……?
泣き続けて死ぬことばかり考えていた頭が、急に回転しました。このまま私が死んだとしたら、どうなるだろう。母や同級生からいくじなしに思われるし、頭が良くない人間だと思われるし、さらに価値のない人間だと思われるだろう。今よりもっと笑われる。たまたま合格ラインから2点の差で落ちるという厳しい現実だったけど、私には本当に能力があり、うまく発揮できなかっただけだとして、彼らはそれを知らずに私をいくじなしで、能力がなく、価値のない人間だと烙印(らくいん)を押して永遠に葬るだろう。
では見せてやろうじゃないか。私が本当はどういう人間なのか――。
私は空に向かって片手を高くかざしました。そして言いました。 「神様、私を見ていてください。1年間、時間をください。留年して、学校でもう1回、あと1年勉強させてください。もしそれでも来年、試験に落ちたらここに来ます。そして死にます。」
2回目を受けて落ちたそのときに死んでも遅くない、と思い直しました。この1年間、一生懸命頑張るから、私を助けてください。この私を見ていてくださいと、空に向かって誓いました。私はいくじなしで能力のない人間じゃない。価値ある人間なんだ!
生死にかかわる選択を前に、たぶん、私の真の個性が出たのでしょう。生まれつきの負けず嫌い。いつも勝ちたいわけではないけれど、ここが勝負どころだと思ったら、負けない努力や工夫をするのをいとわないのです。
今思えば、死ぬ覚悟をもったのと同じくらい強く、心の底で「生きたい」と渇望していたのです。「神様の声」で我に返り、私の覚悟は死から生へ、180度転換しました。
待てと言われたからには、やることがある。行き場のなさに悲嘆してはいましたが、それ以上に、自分にとても腹を立てていました。高校受験が非常に難しいものだったにせよ、実力不足で落ちたわけですから。腹をくくりました。
泥沼に踏み入れるはずだった足を逆の方向に振り出して、私はトウモロコシ畑を抜け出すため歩き出しました。今度は、沼と逆の方向に向かって。神様に誓った1年間、勉強して試験に受かるために。生きて頑張り、大きな世界へ行くために。
■「大変だね」と泣いた祖母
トウモロコシ畑を去った後、近所にあった祖母の家に着いたころにはあたりは暗くなっていました。自宅には帰りたくありませんでした。「死ね」とまで言われた母が恐ろしく、顔を見たくなかったのです。恐ろしさを通り越し、会いたいとも、そばにいたいともまったく思えませんでした。
トウモロコシ畑の地面は乾いていました。そこに突っ伏して泣いていたため、乾いた土が涙で顔にこびりつき、服も泥で汚れ、ぐしゃぐしゃでした。祖母はそんな格好で私が来たのを見て、泣き出しました。「あなたも大変な子だね。あんなお母さんから生まれて、大変だね」と言って涙をこぼしました。私が自宅をぷいと出て行ったきり戻ってこないのを心配した父や、近所に住んでいる親戚があちこち探しまわったそうです。私の「失踪」は、もちろん祖母にも伝わっていました。
その日、父は夜仕事をしていたので、日中は在宅でした。母が試験に失敗した私に向かって「学校から帰る途中で、あなたにはいくつか死ぬ方法があった」と列挙し、「早く死んでしまえばいい」とののしったのが聞こえたそうです。後から聞いたところによると父は「お前はそれでも母親か。そんなこという場合じゃないだろう、やめろ」と怒ったそうです。でも母がまくしたてていたので止められなかったのです。
なぜ母は私の受験失敗にあんなに怒ったのか。それは、自分のメンツがつぶされたと感じたからです。私を転校させてまで受験を支援したつもりだったのが、思ったように私が成功できず、恥ずかしい思いをさせられたと受け取ったのです。
私が消えた経緯を父はわかっていました。死ぬ気で家を出た、もう死ぬんだろうな、と思ったと。試験に失敗してしょげ返っているところに、実の母親に「死ね」と傷口に塩を塗るような言い方をされたら、だれしも耐えられるものではありません。「娘が死んでしまったら、私はあなたを許さない。」父はそう母に告げ、ふたりで急いで祖母の家に向かったそうです。
祖母の家で私は一息ついていました。いつも祖母は私の味方でした。「おばあちゃん、私、もうお母さんの顔見られない。ここにしばらく寝泊まりしていい?」と聞いたら、祖母はもちろんそうしなさい、と言ってくれました。秋に学校が始まるまで、残りの夏は祖母の家に滞在し、母の顔を見ずに過ごしました。
そして9月からもう1年、中学へ通いました。片道2時間半の自転車通学は変わりません。祖母の家から自宅へ戻りましたが、母は私に対して、何もなかったように振る舞いました。私に何か起こったら許さないと父からきつく言われたので、怖くなったのでしょう。私も勉強にこれまで以上に集中したので、あまり母との関係に注意を向ける余裕はありませんでした。
1年後の夏、私は試験に無事受かりました。神様の与えてくれた1年の猶予を、腹をくくって勉強して過ごしたのです。トウモロコシ畑の奥にある沼へは、もう二度と行くことはありませんでした。
私の失敗をあざ笑った田舎の同級生たちは、だれも高校へ進学できませんでした。高校進学は非常に競争が激しく、当時、合格率1%程度の狭き門でした。それから20年ほどたって、弁護士の仕事で帰郷した私は、道端でリンゴや野菜を売っている行商の女性を見かけたことがありました。その人が、かつて私を笑った同級生グループの一人であると気づきました。彼女の顔は、そばかすやしわがたくさんできていました。私だと認識した彼女は興味津々で私を眺めて言いました。「馬さん、まるであなた、別の星から降りてきた人のよう」
◇ ◇
「トウモロコシ畑での誓い」で私は、目に見えないもの、直感でとらえた心の声を信じることで命が救われるときがあると知りました。心の声を拒絶するのではなく、受け止めて行動することが自分のためになることも。そこから素晴らしく価値ある人生が開けるのだ、ということも……。
追いつめられた、15の夏の日。立ち上がったその瞬間に聞こえた「待て」という声に生かされて今があります。
読者からのコメント
高畑さん、60歳代男性
人生には挫折は何度もあります。 多感な年頃に母からの死んでしまえの罵声は耐えられないですね。しかし、死を目の前にして天の声の「待て」は 自分の幼少の頃から体験した逆境に対しての不屈の精神 力が、自分の内なる思考として出たものと思われる。 幸いにして、祖母や父の愛情に救われてます。 母の愛情は未だ理解ができませんが。
奥田 貞之さん、50歳代男性
毎回このブログを拝見してワクワクです! 毎日の自分のあり方に『気づき』を頂いています。 今日も「トウモロコシ畑での誓い」早速拝読しました。 感動で鳥肌のたつ瞬間でした。私が個人的に約20年学んできた中国古典思想の陽明学に『良知』という大切な心の存在があります。 まさにこのトウモロコシ畑での15歳の嗚咽と絶望が、実は馬さんの体に沸き立った『良知』の目覚める瞬間だったのでしょうか。 今では日本と中国の橋渡しを果たし、ビジネスでご活躍される馬さんの心の目には、誰にも映らない別の世界の『トウモロコシ畑』の風景がいつまでもあるのですね!
泉野普久さん、60歳代男性
馬さんの精神力はすごいですね。それは努力をする、勉強をする、そして「生きる」んだという心です。一番の最後の味方は母親であってほしいと思うものですが、それが逆に気持ちを下げる方になるなんて、ぐれたくなります。馬さんはそのエネルギーは向上心、または栄達心のようなものだと思いますか。または知的に生きるんだという自尊心によって困難な局面に打ち勝ったと思われますか。生きるということは大なり小なり、生きている限りは絶望の境地に陥ることがしばしばありますが、人の心は弱いもんです。結果はすべて努力を反映するものではない。運命的な不幸も、不条理もある。そうしたなかで常に努力を続けるにはその姿を自分で評価することかなと思います。人生における成功とは努力をし続けることで、決して死んではいけないということですよね。
30歳代女性
今回のお話も凄かったですね。 ドキドキしながら拝見させて頂きました。 努力の甲斐あっての受験合格も、合格率1%の狭き門であったにも関わらず、本当に素晴らしいですね。 そして、こんなにも辛い経験をして来られたのに腐らずに、それをバネにして、ここまでの地位を築き上げて来られた馬さんに、尊敬に念を抱きます。 仮に今、自分に悩みがあったとしても、このお話を聞くと、とてもちっぽけなものに思えますね。 多くの気付きを与えて下さった事に、改めて感謝したいと思います。
堺谷光孝さん、60歳代男性
馬さんの15歳の夏は、辛い試練との闘いだったんですね。母親からの「死ね」という罵倒や近所の子供たちからの冷たい視線が、15歳の子供にとってどれだけ深い傷を与えるか、想像に難くないところです。その試練に耐えて、受験勉強に再度チャレンジしたことで、今の馬さんがあるんですね。 それにしても合格率1%の狭き門に再度チャレンジしてクリアされた馬さんの努力と精神力の強さは驚異的ですね。「生きろ」と囁いた神様が応援してくれたのでしょう。
寂恋法師さん、60歳代男性
こんばんは、トウモロコシ畑での15の誓い、決心を拝読しました。若い時のその体験は絶望的で想像を絶する過酷なものだったでしょう。しかし一度乗り越えられればもう後は怖いものは何もありませんね、あれ以上過酷はなことはないと、あの時でさえ乗り越えられたと。やはり人生塞翁が馬でしょうか。ちなみに日本では若い時の苦労は買ってでもしなさいと教えられます。けだし名言ですね。