2016年11月18日
早稲田大学大学院の試験に受かり、大学院生になったころ、すでに私は「法律の道で生きていこう」と定めていました。一番興味を持ったのは商法でした。もともと中国には商法の概念がなかったのです。
日本の商法は、古くはドイツの制度をモデルにしたもので、戦後、米国スタイルを徐々に取り入れていきます(2006年に会社法として改正されました)。私が大学院に入ったころ、中国ではちょうど会社法の本格的な立法に乗り出しており、専門家や研究者のチームが調査の一環で、早稲田大学に来たことがありました。私は通訳を務めるなど、専門家たちのお手伝いをする機会に恵まれました。彼らは日本やドイツの法律を多く学んで帰国しました。私は商法の知識がこれからの中国の発展に絶対必要になると確信したと同時に、中国で会社法が立法されるとなったら、自分が早稲田で学んだことは、中国で使えるという自信ができました。
■日本企業の経営を知りたい
このころ、自分の将来をより具体的に考え始めました。法律の道で生きていくうえで、自分は何ができるか。弁護士になる夢は、答えの一つでした。弁護士になったら、普通の中国人弁護士ではなく、日本で勉強し、日本の会社法を知っている中国人弁護士として、それを強みにできる。さらに日中の環境を分析していくと、1990年前半から中ごろにかけ、製造業を中心とした日本企業による中国進出ブームがありました。これらの企業の中国進出を、私の専門知識を生かして法律の面で助けることができるという考えにたどり着きました。実際、日本のなかで中国のビジネス慣習に詳しい人は少ないと感じていたのです。
大学院生は一般に、取得すべき単位は3~4の科目だけで、そんなに多くありません。論文に取り組むのが第一の目標です。商法を学ぶ者として、日本企業の経営の実態をこの目で見て知りたかったので、夏季・冬季の休暇を利用して、ある電機メーカーに契約社員のような形態で入り仕事をすることにしました。
丸の内にある本社で、オフィスコンピューターを扱う仕事です。平日の昼間はここで働き、夜間に授業に出席したり図書館で勉強したりする、二足のわらじを履く生活でした。このときにコンピューター機器に慣れ親しんだ経験は、その後、非常に役に立ちました。
大きい会社で、福利厚生制度はきちんとしていますしお弁当も出ます。上司や同僚はいい人たちで、仕事が終わるとカラオケに行ったりして、雰囲気もよいものでした。ですが、決まり切った毎日を送るようになっていることに気付きました。安定した職場でしたが、全体の企業像が見えづらく、私が本当に知りたかった生の企業経営のあり方がわかりません。
これではまずいと思い、日本人の知り合いに相談しました。大きな企業では見えない経営が、中小企業ならば見えやすいのではないかと思ったのです。ある中小企業を知っているから紹介できますと、その人は言ってくれました。大学院2年生のとき、その縁で、小規模なエレベーター保守会社に短期で勤務することになりました。そして日本のエレベーター業界というものを初めて知ったのです。
仕事と論文作成、そして並行して博士コースに入るための試験の準備で、目が回るような忙しさでした。実は、このときに私に大きな恵みがあったのです。文部科学省(当時は文部省)から、奨学金を得たのです。それまで、両親から一切の経済的支援はなく自分でやりくりしていたので本当に助かりました。「これで勉強に専念できる!」とうれしかったことをよく覚えています。
■中国で弁護士に さまざまな案件を経験
1996年3月に修士課程を無事終えた後、いったん中国へ戻りました。中国で弁護士の資格を取りたかったからです。統一試験という資格試験があり、猛勉強して臨みました。日本の商法を知っていたおかげで、頭にすっと入ってきたのには助かりました。同年12月、初挑戦で合格という幸運を手に入れました。その後登録手続きなどを経て(結構大変でしたが)、上海の弁護士事務所に入りました。
中国には弁護士はまだ少なく、活躍の場が急激に広がりつつありました。改革開放路線の継続・加速を当時の最高指導者の鄧小平が呼びかけた「南巡講話」(92年)によって、経済がふたたび盛り返したのです。類を見ない「社会主義市場経済」を追求する中国のダイナミックな潮流のなかで、政策の変更も頻繁に行われます。
弁護士事務所には、ありとあらゆる案件が持ち込まれました――商売上のトラブルはもちろん、株式上場、会社経営にかかわる契約書作成やコンサルティング、政策変更にかかわる法的アドバイス、不動産関連の諸案件、離婚協議など。面白かったのは、刑法の実習があって、先輩弁護士と刑務所を訪れ犯人と面談を行ったことです。
何度も法廷に立つ機会に恵まれました。弁護士の仕事をするうち、中国のやり方というのは人間関係でかなり左右されることが多いとわかりました。法律で弁護するとなぜか負け、人間関係で勝ったりする。当時は法整備が十分でなく、制度が隙間だらけだったのは事実です(今はもっとよくなりました)が、違和感を持ちました。
それでも見渡せば、経済が猛烈に成長していて、ビルがすごい勢いで建築されていました。不動産の価格がつり上がっていった時期でもありました。給料もよかったし、このまま上海で仕事してもいいな……と思い始めました。同僚のなかには、別荘を建てるなど豊かな暮らしを謳歌する人もいました。
しかしながら、そこでも私は人生の選択を迫られていました。まだ早稲田に籍を残していたことから、それを生かして博士課程に入るための試験を受けるか、上海で弁護士の仕事を継続するのかの選択です。試験を受けるとなると、仕事を辞めて東京に戻らないといけないわけです。自分の将来を塗り替える重大な岐路に立っていました。
最終的に、弁護士免許を持っているので、仕事しようと思えばいつでもできると結論を出しました。決め手になったのは上述した奨学金でした。ありがたいことに、いただいていた奨学金の条件に、博士の試験に合格すれば、博士課程の3年間を自動継続できるという要項がありました。「せっかく専門知識を勉強するチャンスがあるのに、仕事に戻ってお金を稼ごうというのは違うだろう。今を逃せば、勉強する時間は二度とこない」という思いが私をかき立てたのです。
今を大切にしたいと、日本で博士号を目指すことに決めました。博士コースを選ばないといけないし、論文も書かなくてはいけないので、1年足らずで弁護士業を中断し、日本に拠点を戻しました。
■マナーモードでなかった電話
上海を離れる前のことです。弁護士事務所にいたときに、日本での仕事を通じて知り合った人物と再会しました。上海市の政府関係者で仮にAさんとします。
当時、高品質の日本製エレベーターが多く中国に導入されていました。保守について、Aさんは悩みをもっていました。日本製エレベーターのメンテナンスセンターの機能は台湾や香港にあり、中国になかったのです。不便だったため、彼は自分自身でその保守サービスの仕事をしたいと考えました。私がエレベーター保守の会社にいたことを知っていた彼は、迅速な部品調達ができる企業や、技術そのものを学べる研修プログラムを提供しているところを探しているので、日本にあれば教えてほしいと依頼してきました。
「日本に戻るから、そういう会社があるか探してみますね」と言って再来日した後、いろいろ調べました。わかったのは、この業界はメーカー系列の会社が独占していて、それ以外、ほとんどプレーヤーが存在しないということだったのです。独立系の企業は1~2社ありましたが、海外と合弁したり提携したりするような感じではありませんでした。Aさんにさっそく「残念ですが、難しいみたいです。」そう報告しました。
私はその時期、多忙だったせいかなかなか寝付けない日が続いていました。当時の携帯電話は比較的サイズが大きく音も大きかったので、起こされるのがいやで、いつも夜はマナーモードにしていました。話をしたとしても自分が言ったことを覚えておらず、人との約束をきれいさっぱり忘れてしまうことが多々あったのです。
ある日、夜の11時か12時ころ電話がかかってきました。とっくに寝ていた私の耳に、着信音が大音響で飛び込んできました。いつもマナーモードにして寝ていたのに、その夜だけ、偶然にも設定を忘れていたのです!
だれだろう?
深い眠りから起こされ、不機嫌に電話に出たら、Aさんでした。出るなり、エレベーターの話をまくしたてました。
「馬さん、あなたはエレベーターの知識あるから、私と合弁会社をつくればいいんじゃない?」私は半分うとうとし、機嫌が悪いまま返事をしました。「この前言ったと思うんですけど。日本はそういう会社ないから。難しいって。」すると彼が言います。「会社がないなら、あなたがその仕事をやればいいじゃないか。できないの?」
ふいに彼の熱意に心打たれました。協力できるならそれもいいと思いました。加えて、私は弁護士なんだ、困っている人をなんとか助けたい。そんな大義も感じたのです。「わかりました。会社をつくれるかどうか、しかるべきところに相談してみます。」と言って電話を切りました。
翌日、Aさんの言ったことをしっかりと覚えていました(私にとっては、驚くべきことでした)。さっそく法務局へ行って、担当者の人に「こういう会社をつくりたいのですが、つくれない理由がなにかありますか?」と聞いたら、あっさり、「特にないです」と言われました。そうか。よし!
この私が、会社をつくることができる!
■日本の規制緩和のうねりを見て
それまで真剣に考えたこともなかった「会社をつくる」という選択肢が急に視野に入ってきた理由はいくつかあります。
まずはAさんを助けたい。困っている人を見ると、つい、助けたいと動いてしまうのです。「できないの?」と言われて引き下がってはいられないという負けん気もありました。
もう一つ、私は女性で、就職が難しかったことです。学部生だったときに手痛い就職失敗に遭ったことが、まだ忘れられなかったのです。総合職を目指していた私が日本の会社で仕事を得ることは、ほとんど無理に見えました。自分で自分を雇ったらどうだろう? 自分の能力でできれば、創業も悪くないと思いました。
さらにもう一つは、自分なりにいろいろ調べて、エレベーター保守の業界は規制の壁が立ちはだかる状態でしたが、ゆくゆくは緩和されるだろうと見込んだことです。
通信業界には、96~97年当時、世界的に大きな「規制緩和」のうねりがありました。緩和、緩和の大号令で、日本では、日本電信電話(NTT)という一つの巨大企業を再編成し、持ち株会社の下に長距離1社と国内2社の子会社をおく組織にするという議論が盛んでした。通信は規制に守られた独占事業でしたが、緩和のうねりが再編や分社化をうながしていました。移動体通信分野も同じように目まぐるしく変わっていました。時代の力強い変化を、目の当たりにしたのです。
私はエレベーターの業界も、通信で起こったように、いずれメーカー系列が強い時代は終わりを告げると考えました。自分で緩和をうながす触媒になるとは思いませんでしたが、今のうちに、隙間産業だから、会社をつくればいいのではないか。そのうち競争になるから、その前にノウハウを初期段階から積めば優位に立てる。業界は絶対緩和される、自由化される。いつかはわかりませんでしたが、そう見通しを立てました。
その考えが頭を占めていたとき、旅行だったのか、あるビジネスホテルに泊まりました。夢を見ました。夢の中で、あなたなら大丈夫と言われた気がして、会社をつくろうと決めました。迷っていたところに、自分の内なる声が背中を押しました。
またちょうどその時期、私の倍近くの年齢の日本人男性で、私と仕事をしたいという人がいました。最初は私自身、企業経営に自信がなかったので、年配男性と組めば大丈夫かなと思いこの男性と出資し、起業に踏み切りました。エレベーターの保守サービスを手掛ける会社です。
名前は「東京エレベーター」にしました。所用で上海に行き、街中を歩いているとき、心に浮かんだ名前です。社名はわかりやすさが第一。「東京」は日本を代表する都市で、それに「エレベーター」を付けたのです。思いついた瞬間、とても気に入りました。あまりにもいい名前に感じられたので、だれかがすでに登録しているだろうと心配しました。調べたらその形跡はなかったので、喜んで命名したのです。
マナーモードを設定し忘れたことで受けた深夜の一本の電話。偶然が私に味方し、東京エレベーターは1997年6月17日、生まれました。日本人男性を社長に、私は副社長としての出発でした。
ところが喜んだのもつかの間、すぐ窮地に追い込まれることになるのです……。エレベーターメーカーの営業担当者が面と向かって「部品は売りませんよ」とすげなく言うような時代でした。何が起こったのかは次回に。
読者からのコメント
昌美さん、50歳代女性
いつも馬英華さんの記事を楽しみに拝見しております。中国人女性が日本で起業すると言う事は、並大抵の勇気ではございません。もしかしたら失敗するかも?と言う不安も大きかった事でしょう。「東京エレベーター」も分かりやすい命名でございました。お仕事が成功して本当に良かったです。これからの展開を楽しみにしております。
ミッチーさん、60歳代女性
馬さんの「考え方」と「行動」という人生に対する鉄則がどの段階でも貫かれているのだといつも感動して拝見しています。一女性の生き方としてこの連載をとてもたのしみに読んでおります。
Mattさん、50歳代男性
東京エレベーター起業のエピソード、やっぱりここにも凄いドラマがあったのですね。とにかく人生の至るところで重要な決断の連続、しかしながらいつも決断したことを正解にしていくすさまじい努力、そして運命的な出会いの連続でもあるんですね。本当に毎回毎回、波乱万丈の面白さに感動してしまいます。2週間後がいつもにも増して待ち遠しいです!
松川誠さん、60歳代男性
あなたは偶然が重なった、と思っているのでしょうがすべてあなたの努力による必然の果実です。あなたの賜物ですね。 いつまでもこの連載が続きますように
初見さん、60歳代男性
修士課程を無事終えた後、中国で弁護士の資格を取り、 上海で弁護士として成功し始めた時に、 日本に戻り博士課程に入り さらに勉強することを決心するところに 馬さんの強さを見ました。 起業を決断するのもむべなるかなと思いました。
堺谷光孝さん、60歳代男性
起業のきっかけがマナーモードでなかった携帯電話というのは、面白いエピソードですね。元々のニーズが中国サイドにあって、東京でエレベーターの保守管理をする独立系の会社がなく、やむを得ず会社を立ち上げた、という動機や日本の規制緩和を見透して商機あり、という目の付け所が卓抜だったんですね。私も建設業にいたので、エレベーターの保守管理をする仕事が、sメーカー系の会社で独占され、価格も高止まりしていた状況は、よく理解できます。そんな状況下、大学院生が起業するのは大変な困難があったと推察します。
高畑利弘さん、60歳代男性
努力家で常に前向きで先を読むパワーと行動力は素晴らしいですね。大手電機メーカーの契約社員では多くを学べないと中小企業への転職。中国での弁護士を続けるよりは博士号を取った方がよいとの判断。携帯電話のマナーモードを忘れた故の深夜の知人からの電話がエレベーター業界への足掛かりとなった。いよいよ日本での会社設立~会社の名前を「東京エレベーター」といったブランド都市を考案して認可を得た。 しかしまたしての、次の難題が~課題は飛躍の一里塚であると考えます。次回が楽しみですね!