2017年03月31日
みなさんへお話ししてきた私のライフストーリーもそろそろ最終章に近づいてきました。 四面楚歌(そか)、あるいは背水の陣と思える状況に身を置いても、何とか行動を起こして、次々に直面する困難を乗り越えてきました。何が私を行動にかき立てるのか、いま一度、私の過去に遡ろうと思います。
母が私に厳しく、そのため幼少時からずいぶん苦しんだことはお話ししました。女はそのうち嫁に行くので、お金をかけるのはもったいない。そう固く信じている人です。
ちょっとでも気に入らないとののしり、時にはなぐることもめずらしくありませんでした。小さいときにはそれでも母の機嫌が良くなったらうれしい、自分の頑張りを認めてほしいと、家事を一生懸命やって、自分は母を満足させられるだけの能力があるのを証明したかったのです。夕飯の用意など私の仕事として当然と受け止めていた母は、私を褒めるどころか、少しの落ち度も許さず、声を荒らげたのですが……。そのたびに生きた心地がせず、「このままでは私は生きられない」と焦燥感にかられ、なんとかこの環境から脱出したいと考えをめぐらせるようになったのです。
■母がいたから前に進んだ
自尊心のかけらもなくなるまで浴びた罵声とののしりのなかで、人一倍、死ぬことを身近に感じていた少女時代でした。実際、死の寸前まで行ったことも2度ありました。
最初は高校受験に失敗したときです。戻った私に「死んでしまえばいい」と言い捨てた母。友人たちに試験に落ちたことを笑われ、居場所を失った私が自らの命を絶とうと踏み込んだトウモロコシ畑にあった沼のほとりで啓示を受けました。「待て」という女性の声にこれは神様だと確信して頭上を仰ぎ、「神様。1年だけ時間をください。それでだめだったら、来年また来て、そのとき死にます」と誓ったのです。
なぜ、どこからその声が聞こえたのかわかりません。でも、はっきり聞こえました。私は今ここで死んだら母や友人に笑われるだけだと思い直し、引き返したのでした。沼に足を踏み入れようとした瞬間は、私にとって、死に一番近かった瞬間でした。
母と一緒に住むことは、私にとってはありえない選択肢でした。この家庭で、私は生きていかれない。死ぬか、どこかほかへ行って生き延びるか。そこで出した結論が高校の寮でした。そこなら、どんな苦しいことがあっても耐えられる。なんとしても受からなければいけないと自分に言い聞かせ、その後の1年を過ごしました。
私は、ずっと母に褒められたかったのです。お母さんの愛が欲しかった。いつもどこかで、母に対して期待があったのです。普通のお母さんのように。ですがそれはいつも手に入らず、怒らせるばかりだったから、自分の努力が足りないんじゃないかとか、自分がもっと首尾よくやればいいんじゃないかとか思っていました。だから余計努力してしまう。女だって、できる。女だからって、価値がないわけじゃない。それを証明するために、与えられたことはこなしていたし、もっと褒められたい思いから、さらに先読みして進むようになったのです。
どんなにか、母からつらい思いをさせられたか。ですが振り返れば、この試練が私を鍛えたのは間違いありません。母がつくった過酷な環境があったことで、生きている意味、親子の絆やお金の価値について、とことん考え抜く癖がついたのです。
■大病と恩師
もう一回は、高校3年生の冬にかかった大病です。高校は203高地のふもとにありました。日露戦争で激戦だった場所です。そこは文字通り小高い丘になっていて、ある日、親友とそこに上って勉強したことがありました。帰ってから、原因不明の高熱が出て何日たっても下がらず、ひどい状態になりました。神経がおかしくなってしまい(たぶん炎症を起こしたのでしょう)、顔に一部まひが起こってしまった。口元がうまく動かせなくなり、つばが勝手に流れてしまうのです。
吐き気がすごいし、足がむくんで靴もはけなくなりました。自転車をなんとかこいで大きい病院に行ったところ、診てくれた先生が「勉強どころじゃない。早くご両親を連れてきなさい。気の毒だが足を切断しないと、生きていられないですよ」と言われました。
203高地ではたくさんの人が死んだので、つき物がついたのだと今は思っています。血管の病気で、一種の静脈瘤(りゅう)でした。下肢に激しい痛みとむくみが起きました。心臓や肺に血栓が流れたら、それこそ命にかかわります。
寮から自宅に戻ったら、いつものように、母は私に「死ね」と言いました。助けてほしいと両親に頼み込みました。でも大きい病院に行ったら、足を切断されてしまう。そう恐れて、つてをたどって、はりの名医を訪ね患部にはりを打ってもらいました。今では禁止されているほどのかなり太いはりでした。
「今日来て運がよかったね。あと一日遅れていたら私でも救えなかった。」そうおばあさん先生は言いました。刺したところを強く絞ってくれと言われて、付き添っていた父が私の足をぐいぐいと絞りました。最初は出てこなかったけど、少しして、黒い血がとめどなく出てきました。どう作用したかわかりませんが、このはり治療は、私の治癒力を引き出したようで、1週間ほどで再診したら、もう血は赤い色になっていました。むくみも日に日に取れて、しわが寄るくらい急に元の大きさにしぼんでいったのです。
療養するうち、もう初夏になろうとしていました。当時の中国では7月に受験の季節を迎えます(現在は6月)。それに先立ち、健康診断があります。健康診断に合格しないと校医のサインはもらえず、それがないと受験できない仕組みでした。わかっていたことでしたが、病気の私はサインがもらえませんでした。これは受験放棄と同じことを意味します。担任の藤先生は私の成績を見込んでおり、とても心配してくれました。はり治療の後、先生にすっかり病気が治りましたと言ったところ、サインをもらうために、先生は校医へお土産を準備しました。
中国では贈り物をするとき、礼儀作法として1つだけじゃなくて、4つほど贈るのがならわしです。人がありがたく感じてくれるからです。先生が買った物はよく覚えています。クッキー1袋。1985年当時は、貴重でした。それとキャンディー1袋。瓶詰めのシロップ漬け白桃に、お酒でした。クッキーやシロップ漬けの白桃を見たことはありましたが、食べたことはありませんでした。それだけ貴重で、値が張るものだったのです。
一緒に校医を訪ねて、藤先生は何も言わず、持参したお土産を机に置きました。校医は、私を覚えていました。私の足を見て、「藤先生、今すぐサインします。お土産は持ち帰ってください。この子の足は奇跡的に治りました。この前来たときとはまるで違う人です。」
奇跡だと何度も言われ、校医のオフィスを後にしました。藤先生が握っていた書類が震えているのがわかりました。ふたりでだまって学校に戻ったのを覚えています。 先生には私を大学に受からせるという目標がありました。高校内の先生同士でも教え子の進学率をめぐり、競争が激しかったからです。通っていた進学校の高校から私を辞めさせ、地元の高校に転校させるために藤先生に談判しにいった私の母を知っていたし、食事も事欠く私の苦境をご存じでした。複雑な感情があったのでしょう。藤先生は涙ぐんでいました。私のために涙を流してくれたのです。私は、藤先生の指導で、第1志望の難関大学へ入れたのです。
不思議な力に助けられて、私は死の淵から前に進むことができました。その後来日してから味わったつらい日々も合わせ、どんなことが起こっても私は大丈夫だと思えるようになりました。他人事ではなく、死を前にして自分がやらなければならないことがこれ以上ないくらいの現実として感じられたのです。もちろん、物事を進めるにはさまざまな角度から慎重に検討します。ですが決めれば後は行動だけです。一度死んだも同然の経験を味わったから、生きられるだけでありがたいのです。行動しなければもったいない。
逆境の度合いがひどいほど、反転したときの達成感は大きい。行動から、反転の糸口が見つかるものです。
■社訓に込めた意味
それと痛感していることは、感謝の気持ちを持つ大事さです。進学のため来日し、早稲田大学を卒業した後に進んだ早稲田大学大学院では、奨学金を数年にわたっていただきました。選ばれた大学院生しか受給資格のない栄えある奨学金で、どんなにありがたく思っているかわかりません。
今でもその申請に伴う面接を覚えています。「あなたの夢はなんですか。将来、何をしたいですか」と質問されました。教授らが居並ぶ前で、私は3つ、答えました。「日本のいいところをまとめて、本にして出版したい」「それを中国人に伝えたい」「奨学金をいただいたら、なんらかの形で恩返ししたい」。私の夢は日中の懸け橋になることだと訴えたのです。
本の出版は縁あって数度かなえました。今後も書いていくでしょう。日中ビジネスのコンサルティングを通して中国を知ってもらい、日本企業が中国に根付くお手伝いをしています。恩返しについては、日本で会社経営していることで、雇用をつくり、顧客に喜ばれるサービスを提供していると自信を持って言えます。少しずつですが、会社は徐々に大きく、強くなっています。こんなにありがたいことって、あるでしょうか。 社員にはこう言っています。心で考えてほしい。うちのようなサービス会社って何なのか。感謝の気持ちを持っていれば、なんでもできるのですよ、と。その考えを簡素に表す社訓をつくりました。
私たちは、周りにいる人たちと助け合って仕事をしている。お客さん、まずこの人たちが一番。彼らがいなければ、私たちは存在しません。それと2番目、私=会社という意味を込めてつくりました。会社という場所がなければ、これも私たちは存在しえません。3番目、仕事は一人ではできません。仲間がいてこそ、あなたや私が仕事できるのです。そして最後ですが重要度ではどれにも勝るとも劣らないもの。自分に感謝を忘れてはいけません。
一生懸命仕事していると、自分の心の動きや健康に無頓着になりがちです。健康に気を付けるのは当たり前だとつい思うけど、当たり前ではないのです。たくさんの人たちの支えで自分が維持できているのと同時に、自分が、だれかを支えていることも忘れてはならないのです。長年の会社経営で学んだことを、易しい言葉で言い表したつもりです。平易ですが、いろんな知識が詰まっていると自負しています。 この会社を設立して今年でちょうど20周年を迎えます。女で外国人、知り合いのまったくいない日本社会に飛び込んで、独占状態だったエレベーター保守業界に踏みだしました。四方が壁だらけでも、ニュースに取り上げてもらう努力や、弁護士だからこそ持ち得た知識と自信によって解決策を見つけてきました。人の役に立ちたいという信念で、独占状態に風穴を開け、東京エレベーターという独立系の会社でも仕事を請け負えると広く知ってもらったことを誇りに思います。競争のあるエレベーター保守業界によってたくさんの人を助けられたのは、一つの実績ではないかと思います。
最後に母について一言。私が大人になり、日本で生活をするようになってからは、以前のようにひどい言葉を言われなくなりました。もちろん幼少時の記憶が消せるわけではないですし、私にしたことは許せないものもあります。それでも帰郷すれば、表面上はふつうに話しています。心から打ち解けた親子にはなれませんが、私をこの世に生んでくれたことには感謝しています。
夫は生前、私によく言いました。「英華、あなたはまだ40代だけど、5つの時代を生き抜いてきたんだね。最初の時代はあなたのふるさと。中国大連の、オオカミが出てくるような場所での人生。あなたの同級生のように、ここで全人生を生きる人々が大半だ。2つめは『大きな世界』へこぎ出した人生。中国から飛び出し、外国へ進学し、そして仕事をつくった。3つめ、その仕事で既存の常識を打ち破り、新しい文化を生み、そして成功し続けた。どれも大きな仕事で、簡単になしえない。4つめ、日本という外国で20年くらい生活し、ずっと付き合ってきた。5つめ、その日本と全く違う西洋のスウェーデンという国とも付き合っている!」
まだまだ、6番目、7番目だって切り開けると思っています。自分は価値のある人間で、小さいときから人の役に立ちたいと願ってきました。はるか大連から来日し、縁あってここで私自身のお話ができたということは、その考えは間違っていなかったと改めて思います。
ライフストーリーを語り始めてから読者と会うことがあると、こうした方々がしばしば、連載に感動し、希望と力をもらい前向きになりましたと言ってくれます。著者としてこれ以上ない喜びを感じて、自分のストーリーを書いて良かったと思います。読者のみなさま、そして私を受け入れてくれた日本の人たちに深く感謝しています。ありがとうございました。
読者からのコメント
チェンミンさん、40歳代男性
最近仕事で落ち込んで、感謝を忘れていた自分に喝!です!私も馬社長と同じようにビジネスでここまでステージ(いくつもの時代)を生きてきて、次もその次の時代も切り拓く気持ちが湧いてきました!馬社長は通常の人ならめげる生育環境でもここまでこれた。私は普通の家庭だったのに、、、まだまだやってやろうという気持ちになりました!ありがとうございました。
昌美さん、50歳代女性
東京エレベーターの創立20周年(執念)、誠におめでとうございます。よく「逆境こそが成長のチャンス」と言われておりますが、逆境に押し潰されてしまう人の多い中、よくぞご自分の人生を切り拓いていらしたと思います。また、ご自分の過去を赤裸々に書かれることは、大変勇気が要ったでしょう。このブログを拝見してから、こんなにも頑張っている女性がいるのかと驚き、大変勇気付けて頂きました。私も中日友好の為に、努力して参りたいと思っております。いつかお母様とは「本当の母娘」になれますようお祈りしております。
堺谷光孝さん、60歳代男性
日中の架け橋になりたいという夢は、見事に実現しましたね。その原動力にお母さんの存在があったんですね。エレベーターの保守管理という既得権の塊のような古い体質の業界で、風穴を開けられ、会社を発展させる努力は、並大抵のものではなかったでしょう。スウェーデン人の彼氏とのロマンスも素敵でした。短い結婚生活でしたが、馬さんにとって最高の伴侶でしたね。これからの馬さんのさらなる活躍を祈ります。
30歳代男性
この人すごいですよね。心から尊敬します。毎回ブログを読むのが楽しみでした。感謝します。
松川さん、60歳代男性
爽やかな完結の文章ですね。心地よい読後感にひたっています。約一年近く金曜日朝を心待ちで過ごしました。怒り、涙、歓喜、愛そして感謝。すべていただきました、ありがとう。
30歳代男性
社訓「東京エレベーター 社長の馬英華に感謝」を見て愕然(がくぜん)。この意味について「私=会社」と説明書きがあるものの、「経営者に感謝しろ」と社訓がある会社で働きたい日本人はいないだろう。中国から日本にきて苦労された経営者として本ブログを読んでいたものの、この社訓をみると基本的な考え方の違いに驚く。中国人の代表的な考え方と誤解されないか心配。
40歳代男性
ブログを最初から拝読させて頂きました。色々心に残るものがありました。ありがとうございました。今後のご活躍を祈念しております。